日清戦争と日露戦争のあいだに、日本に起きた「巨大すぎる変化」を知っていますか?


夏目漱石も嘆いた

【写真】勝海舟、こんな顔だった…!

少し目線を高くして、巨視的にものごとを見る必要を感じる機会や、「歴史に学ぶ」必要性を感じる機会が増えたという人も多いのではないでしょうか。

「歴史探偵」として知られる半藤一利さんは、なぜ日本が無謀な戦争に突っ込んだのかについて生涯にわたって探究を続けた作家・編集者です。

半藤さんの『人間であることをやめるな』(講談社文庫)という本は、半藤さんのものの見方のエッセンス、そして、歴史のおもしろさ、有用性をおしえてくれます。

本書には、作家・司馬遼太郎の見識の鋭さを紹介する章があります。司馬が『坂の上の雲』に記した名フレーズを、その歴史的背景をおぎないつつ解説するという趣向で、たとえば、明治期の日本に蔓延していた空気について解説しています。

【前編】「勝海舟は、なぜ「日清戦争に反対」したのか…現代にも通じる「その明快な言い分」」の記事では、日清戦争後の三国干渉を受けて、日本がロシアを仮想敵としつつ、臥薪嘗胆を合言葉にひたすら忍耐することとなった経緯を見ました。

つづけて、その忍耐について、半藤さんはこのように書きます。『人間であることをやめるな』より引用します。

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さて、少々わかりきった説明を長々としたが、以上を頭において、司馬さんの文章をもう一度読み直してもらいたい(編集部注:司馬さんの文章はこちらのリンクから)。司馬さんが書いている数字と、わたくしの調べた数字とが、ちょっと異なっているけれども、日清戦争が国力のギリギリのところで戦われたこと、それゆえにその後の軍事力整備に、日本政府も軍部も国民に忍耐を強いたことには相違ないのである。司馬さんの書かなかったところで、もう少しくわしく、総歳費にしめる軍事予算の比率を追ってみたい。

明治二十九年が四三%。三十年には跳ね上がって五〇パーセント。三十一年、五一パーセント。三十二年、四五パーセント。三十三年、四五・五パーセント。そして三十四年、三八・四%。

司馬さんは書く。日本人は貧苦になれていた。その上、封建的な律儀さがまだつづいていた。自分の欲望の主張をできるだけひかえめにすることを美徳としていた、と。

とはいえ、民草にとっては、字義どおり血と涙と汗を搾って払わねばならない重税につぐ重税であった。たとえば、三十四年、三十五年ごろにロンオンに留学していた夏目漱石がいる。当時は(熊本の)五高教授であるから公務員である。で、否応なしに特別税として、俸給の一割を建艦費としてとられたのである。

少ない留学日の上に、ひどい円安で「日本の五十銭は当地にて殆ど十銭か二十銭位の資格に候。十円位の金は二、三回まばたきをすると烟(けむり)になり申し候」(明治三十三年十二月二十六日づけ鏡子婦人への手紙)と悲鳴をあげている。その上の十分の位置の建艦費。それで芥川龍之介が漱石から聞いた話として書いている。

「金に困って昼食を節約して、空腹のため勉強もできなかったということを聞いた。僕はそんな空腹のあとで、一度に飯をつめこむような不規則な生活をされたのが、先生の胃病の原因となったんじゃなかと思うんだ」

それは何も漱石だけではなかった。日本人がひとしく飲まず食わずで頑張った時代であったのである。こうして、狂気ともいくべき財政感覚で、ロシアと戦うためにつくりあげた軍備とはどのようなものであったか。

陸軍——日清戦争の七師団(近衛[東京]、第一[東京]、第二[仙台]、第三[名古屋]、第四[大阪]、第五[広島]、第六[熊本])を、十三師団(第七[旭川]、第八[弘前]、第九[金沢]、第十[姫路]、第十一[善通寺]、第十二[小倉])へと拡充。ほぼ二倍である。

海軍——日清戦争のときの総トン数六万トンを、戦艦四、重巡洋艦三を含む艦艇九十四隻を建造または購入し、総トン数二十五万トンの四倍に拡充した。

まったく臥薪嘗胆とはよくいった言葉である。司馬さんが別のところでいうように、「一国を戦争機械のようにしてしまうという点で、これほど都合のいい歴史時代はなかった」のである。

大長編『坂の上の雲』をシッカリと読むためには、まず、こうした国民的悲惨と、これに耐えに耐えた国民はほんとうに“奇跡”を行ったのであることを、キチッと頭に入れてから読むべきなんである。

単に“勝った勝った”のカッコウのいい物語ではない。

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日清・日露戦争のあいだの変化が明晰に整理されています。【もっと読む】「勝海舟は、なぜ「日清戦争に反対した」のか…現代にも通じる「その明快な言い分」」もあわせてお読みください。

講談社文庫出版部



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