今はなにかと「生きづらさ」を感じる時代。しんどい現実を変えていくのは難しいですが、「捉え方」を変えてみたら、気持ちはスッとラクになります。
その方法を教えてくれるのが、書籍『不自由から学べること』です。12歳からの6年間を「修道院」で過ごした著者が、あらゆることが禁止された暮らしで身につけた「現実のしんどさがラクになる考え方」を紹介。悲観でも楽観でもない、現実に対するまったく新しい視点に、「気持ちが軽くなった」との声が寄せられています。この記事では本書より一部を抜粋・編集し、「マウントしてくる人との向き合い方」を紹介します。
● 「優劣」を押し付けてくる人たち
皆さんは、理不尽な優劣をつけられた経験はないでしょうか。
人はどうしても人間同士を比較してしまう生き物です。
学歴、勤め先、年収といった社会的ステータスから、身長、体重、外見といった身体的情報まで、すべての違いは比較対象となり、その結果に応じて優劣をつけたがります。
こうした比較によって、自分のほうが劣っていると感じた人から「嫉妬」や「僻み」といった敵意を向けられることもあるでしょう。
反対に、自分のほうが優っていると感じた人から「差別」や「軽蔑」といった感情を向けられることもあります。
● 「高卒」であることを軽蔑されたバイト時代
私の場合、「高卒」の経歴が軽蔑の対象となることは少なくありませんでした。
私は18歳で修道院を出たあと、ケーキ屋でアルバイトをしていました。
名古屋に住む兄夫婦の家に間借りして、アテもない土地で見つけたケーキ屋に飛び込んで面接していただいたところ、職人あがりの社長がその気概を買ってくださり採用になりました。
ですが履歴書上は「高卒」なので、その経歴を不安に思ったのか、おかみさんには幾分かつらく対応された記憶があります。
「バイトのあの子は〇〇大学で将来有望だから家に呼んで、すき焼きを食べさせてあげた」とか、「あの子はお父さんが社長だから育ちがいい」とか。何かと「そうではない私」に報告されることも多く、悲しくなることもありました。
雇っていただいたことには心から感謝しつつ、「学歴や資産、将来性で人を判断する方も社会にはいるのだなあ」と感じました。
自分のほうが他者よりも優っていると思って安心したくなるのが、人間という生き物です。
本来、神の前ではすべての人が平等だというのに……。
● 不自由によって教えられた「本当の豊かさ」
聖書では、富も地位も名誉も権威も、神は私たちに約束してはいないとあります。
実際、社会的地位にこだわっているキリスト教徒は少ないように思います。
地位があるなら、その分、社会に奉仕して謙虚になろうという人が多い印象です。
イエス様も馬小屋で生まれ、貧しい人と共に生きていました。
社会的に豊かになるための賢さと、人徳は別ものなのです。
聖書では、大切なのは物質的な豊かさではなく、愛、喜び、平安、寛容、親切、柔和、誠実さなどであり、それらを持つ人こそ「豊か」だと教えています。
何が豊かさであるかは、他人が決めることではなく、自分で思うものなのです。
当時の私も「学歴や収入だけが富ではない」と想いを心に秘めて、教えに支えられながら、できることをやるしかないと頑張りました。
(本稿は、書籍『不自由から学べること』の内容を一部抜粋・編集して作成した記事です。書籍では他にも、「しんどい現実がラクになる考え方」を多数紹介しています。)
川原マリア