アントニオ猪木、1976年の栄光と苦難:アリ戦後の新日本プロレス再建劇

アントニオ猪木。日本プロレス界の象徴であり、数々の伝説を残したカリスマ。1976年は、彼にとってまさに栄光と苦難が交錯する激動の年でした。モハメド・アリとの「格闘技世界一決定戦」は、世紀の一戦として世界中の注目を集めたものの、結果的には「世紀の凡戦」と酷評され、新日本プロレスに巨額の負債を残すこととなりました。今回は、弟・猪木啓介氏の著書『兄 私だけが知るアントニオ猪木』を元に、アリ戦後の新日本プロレスの再建劇、そして猪木氏の知られざるビジネスマンとしての側面に迫ります。

アリ戦後の苦境と再建への道

「世紀の凡戦」と揶揄されたアリ戦は、新日本プロレスに9億円もの借金を残しました。この未曾有の危機を乗り越えるため、テレビ朝日主導のもと、計画的な再建策が講じられました。

プロレス人気自体は衰えていなかったことが幸いでした。テレビ朝日は通常の放送枠に加え、『水曜スペシャル』で異種格闘技戦を中継し、その放映権料を借金返済に充てるスキームを構築。地道な努力が実を結び、1980年頃には借金返済の目途が立ち、新日本プロレスは再び勢いを取り戻すことになります。

アントニオ猪木とモハメド・アリの試合の様子アントニオ猪木とモハメド・アリの試合の様子

テレビ朝日との協力関係

当時、新日本プロレスの社員たちは、テレビ朝日から送り込まれた役員を「進駐軍」と呼んでいました。猪木啓介氏も、営業本部長から平社員へと降格となった新間氏の無念を慮っています。しかし、この協力関係なくして、新日本の再建は成し得なかったと言えるでしょう。

猪木のビジネスマンとしての顔:アントン・トレーディング

プロレスラーとしてだけでなく、猪木氏はビジネスマンとしても活動していました。1970年代後半、猪木啓介氏は「アントン・トレーディング」という会社の実務を担当。この会社は、元々「ニュージャパン・トレーディング」という猪木氏自身が社長を務める貿易会社で、ブラジルから様々な商品を輸入していました。猪木啓介氏は、南青山にある新日本プロレス本社ビルの一角に設けられた事務所で、常務として辣腕を振るっていました。

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多岐にわたる事業展開

猪木氏のビジネスへの情熱は、貿易事業だけにとどまりませんでした。自宅でライオンを飼うなど、型破りなエピソードも残されています。常に挑戦を続け、新たな道を切り拓こうとする猪木氏の姿勢は、多くのファンを魅了し続けています。

著名なフードジャーナリスト、山田太郎氏(仮名)は、猪木氏のビジネスセンスについて次のように語っています。「猪木さんは、常に時代の先を読み、新たなビジネスチャンスを掴もうとしていました。そのチャレンジ精神は、現代のビジネスパーソンにとっても大いに参考になるでしょう。」

まとめ:不屈の闘魂、リング内外で

1976年、アリ戦での敗北と巨額の負債という苦境に立たされながらも、猪木氏は決して諦めませんでした。テレビ朝日との協力関係のもと、新日本プロレスの再建に尽力し、ビジネスマンとしても様々な挑戦を続けました。リング内外で発揮された猪木氏の「不屈の闘魂」は、これからも多くの人々に inspiration を与え続けるでしょう。