稀代の経営者、横井英樹氏。その名は、ホテルニュージャパン火災事件と切っても切り離せないものとなりました。莫大な富を築き上げた一方で、多くの批判も浴びた彼の生涯を、火災事件後の晩年を中心に振り返ります。
ホテルニュージャパン火災:安全軽視の代償
1982年2月8日、ホテルニュージャパンで起きた火災は、33名もの尊い命を奪う大惨事となりました。原因は外国人宿泊客の寝タバコとされていますが、火災報知器の未点検やスプリンクラーの不備など、安全管理の杜撰さが被害を拡大させた要因として指摘されています。利益追求を優先し、安全対策を軽視した経営姿勢が招いた悲劇と言えるでしょう。
焼け落ちたホテルニュージャパンの内部
火災現場に到着した横井氏は、「家具を運び出せ」と指示したという逸話が残っています。人命よりも財産を優先する姿勢に、多くの人々が憤りを覚えました。その後、焼け焦げたホテルは14年間も放置され、街の景観を損なうだけでなく、火災の記憶を人々の心に刻みつけ続けました。
晩年の横井氏:愛人と病院での攻防
火災後、横井氏は禁固3年の実刑判決を受け、服役しました。出所後、東海大学病院に入院していた横井氏に関する情報が週刊文春編集部に寄せられました。複数の愛人が見舞いに訪れているという内容でした。記者が病院を訪れると、ガウン姿の横井氏が二人の女性に付き添われて現れました。
横井英樹氏と愛人
記者の問いかけに、愛人たちは激しく抵抗し、横井氏を逃がそうとしました。病院内は騒然となり、横井氏は愛人の助けを借りて、記者の追跡を振り切りました。この出来事は、晩年の横井氏の生活の一端を垣間見せるものでした。
横井氏の最期と遺産
晩年の横井氏は、かつての莫大な資産のほとんどを失い、スーパーマーケットとボウリング場のみを所有していたと言われています。1998年、心臓発作により85年の生涯を閉じました。
ホテルニュージャパン火災は、日本のホテル業界に大きな衝撃を与え、防火対策の強化につながりました。横井氏の経営哲学は、現代の経営倫理とは相容れない部分も多いですが、彼の波乱万丈な人生は、私たちに多くの教訓を与えてくれます。成功と失敗、光と影、その両面を併せ持つ横井英樹という人物は、後世にも語り継がれることでしょう。