2005年、日本は国連安全保障理事会の常任理事国入りを目指し、世界を舞台に活発な外交活動を展開しました。当時、国連分担金の約2割を負担しながらも常任理事国ではなかった日本にとって、これは悲願ともいえる挑戦でした。この記事では、その舞台裏で繰り広げられた外交戦略、そして様々な国々との駆け引きについて、元OECD代表部大使の岡村善文氏へのインタビューを基に紐解いていきます。
国連改革の機運とG4の結成
常任理事国入りへの強い思い
2005年当時、日本は国連分担金の約2割を負担しているにもかかわらず、安保理の常任理事国ではありませんでした。わずか2%の中国、1%のロシアが常任理事国であるという現状に、日本は強い不公平感を持っていました。「国連に真に貢献している国が常任理事国になるべきだ」という主張のもと、日本は安保理改革を目指して動き出します。
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G4決議案の提出
分担金の議論は途上国からの反発が予想されたため、日本は別の戦略を立てます。2005年3月に国連側が安保理改革の素案を発表したことを契機に、ドイツ、インド、ブラジルとともに「G4」を結成。素案をベースにした「G4決議案」を提案し、同年9月の国連総会での採択を目指しました。
世界を舞台にした外交戦
128カ国への説得工作
決議採択には全加盟国(当時191カ国)の3分の2以上の賛成、つまり少なくとも128カ国の賛成が必要でした。そのため、世界各国への積極的な外交活動が不可欠となりました。当時、在フランス日本大使館に赴任していた岡村氏も、国連代表部に出張し、アフリカなどフランス語圏の国連代表部を1つ1つ訪ね、投票を促す「選挙運動」を展開しました。岡村氏は各国の票読みも担当し、日本の常任理事国入り実現に向けて奔走しました。
厳しい反対勢力との対峙
日本の常任理事国入りには、韓国をはじめとするライバル国からの強い反対がありました。これらの国々は、日本の経済力と影響力の増大を警戒し、様々な手段を使って日本の活動を妨害しようとしました。国際社会におけるパワーバランスの変化を懸念する声も上がり、日本の外交努力は困難を極めました。
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常任理事国入りへの道のり
2005年の挑戦は、最終的に常任理事国入りを実現するには至りませんでした。しかし、この経験は日本の外交戦略に大きな影響を与え、その後の国際社会における日本の役割を再定義する契機となりました。日本の常任理事国入りへの道のりは、今もなお続いています。