中曽根康弘元首相:風見鶏と呼ばれた政治家の真髄とは?

中曽根康弘元首相。レーガン米大統領との蜜月関係、国鉄民営化など、日本の歴史に大きな足跡を残した政治家です。約5年という長期政権を築いた手腕の裏には、一体どんな秘密が隠されていたのでしょうか?本記事では、元衆議院議員・亀井静香氏の証言を元に、その真髄に迫ります。

亀井静香氏が語る中曽根康弘の凄み

中曽根康弘元首相:風見鶏と呼ばれた政治家の真髄とは?中曽根康弘 ©文藝春秋

政治家であれば、信念を貫く姿勢を強調するもの。しかし中曽根氏は、威風堂々とした佇まいとは裏腹に、自身を「風見鶏」と称していました。その真意はどこにあったのでしょうか?

亀井氏は、1980年のハプニング解散直前の出来事を鮮明に覚えています。当時、田中派の支持を受けた大平首相への退陣論が高まる中、亀井氏が所属していた福田派は、ライバル関係にあった中曽根氏と手を組み、野党の不信任案に欠席することを決定しました。

脱落者が出ないよう会議室に籠っていた亀井氏らの前に現れた中曽根氏は、「勇気ある行動だ」と称賛の言葉を贈りました。しかし、その直後、中曽根氏は本会議場で反対票を投じ、田中派支持を表明。一同は唖然としたと言います。

この行動こそが、中曽根氏の「風見鶏」たる所以であり、2年後の首相就任へと繋がる布石となったのです。政治家・中曽根康弘の慧眼と決断力が垣間見えるエピソードと言えるでしょう。

長期政権を支えた柔軟性と、拭えぬ矛盾

「風見鶏」であったからこそ、中曽根氏は5年もの長期政権を維持できたと言えるでしょう。しかし、日米地位協定の改定には着手しませんでした。ドイツやイタリアが実現したにも関わらずです。

本来、中曽根氏は国家の独立や憲法改正を重視する党人派の民族主義者であり、吉田茂氏から続く経済優先の官僚政治に対抗意識を持っていたはずです。 政治評論家の加藤一郎氏(仮名)は、「中曽根氏の政治手腕は高く評価できるものの、日米地位協定への対応は、彼の政治理念との矛盾を感じさせるものでした。」と指摘しています。

2003年、小泉純一郎首相が73歳定年制を「例外なく適用する」として中曽根氏への公認を出さなかった際には、中曽根氏は激怒したと言います。当時、中曽根派後継の志帥会を率いていた亀井氏は、小泉首相が仁義を切りに来た際の「無礼者」という中曽根氏の怒声を今でも鮮明に覚えています。

中曽根氏は「終身比例代表1位」という党の約束を守るよう訴えましたが、小泉首相は聞き入れませんでした。両者とも大統領型リーダーと呼ばれましたが、中曽根氏が重んじた義理人情は、小泉首相には通じなかったのです。

中曽根康弘:その功績と残された課題

中曽根康弘元首相は、国鉄民営化やレーガン米大統領との蜜月関係など、数々の功績を残しました。その政治手腕は高く評価される一方で、日米地位協定への対応など、課題も残されています。風見鶏と呼ばれた政治家・中曽根康弘。その複雑な人物像は、今もなお議論の的となっています。