「六代目山口組」20年ぶり若頭交代の裏事情。抗争終結宣言も内部にはほころびが!?


警察の取り締まり強化や反社追放の機運の高揚、そして離反した神戸山口組との対峙といった荒波に揉まれながら、日本最大の暴力団・山口組の”長男”役で次期組長と目された高山若頭のセミリタイアに、関係者からは困惑の声が広がる。

■離反劇の背景に「スパルタ運営」
2005年の六代目体制への代替わりで、高山氏は弘道会会長として山口組若頭に就いた。直後に六代目の司忍組長が銃刀法違反罪で服役したため、高山若頭が実質的な首領として山口組をけん引した。その運営方針とは、徹底したスパルタ方式だった。

「高山若頭は山口組でのヒラの直参は3カ月ほど。他の直参はみな先輩格になるのだが、組織の長男である若頭として『兄弟』ではなく『カシラ』と呼ばせ、直立不動であいさつさせた。また、全国に散らばる直参衆を神戸周辺に住まいを持たせて平日は総本部に”出勤”させました。

また、刑務所で服役する司組長への忠誠として、事務所での暖房の使用や大規模な宴席を原則禁止にしたり、ミネラルウォーターやトイレットペーパーといった日用品を組織の規模に照らしてノルマとして購入させるなど厳しく統制しました。

このため、山口組系列の事務所ではミネラルウォーターの段ボールが積み重なる光景がよく見られ、繁華街の飲食店に水を売り歩く組員もいた。重鎮らが居並ぶ中、自らの威厳を誇示するためにトップダウンに徹して直参を束ねていったのです」(暴力団事情に詳しいA氏)

こうした強権的な支配は一部の組員の反発を招き、08年には後藤組組長の処分に端を発したクーデター騒動が起こった。この時は不穏な動きを瞬時に察知して早期収拾が図られたが、京都の建設業者に対する恐喝罪で14年に収監されると、15年8月に高山若頭の社会不在の間隙を縫うかたちで井上邦雄組長ら有力幹部が大量離脱して神戸山口組が発足した。

しかし、次第に神戸側の内部での不協和音が高まり、主だった幹部の離反・引退が続出した。また、弘道会を中心に六代目側の攻撃も激化し、特に19年10月の高山若頭の出所前後には、神戸側幹部を狙った銃撃事件が相次ぎ、六代目側の圧倒的優勢を世間に印象付けた。

■人事交代の前触れとなった抗争終結宣言



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