死者数520人…世界最悪の飛行機墜落事故として知られる「日本航空123便墜落事故」。未曾有の事故は、1985年の日本にどんな衝撃を招いたのか? 同事故を取材した報道カメラマンの橋本昇氏の新刊『 追想の現場 』(鉄人社)のダイジェスト版をお届けする。
【衝撃写真】死亡者520名、木の枝には人間の腕が…報道カメラマンが撮影した「史上最悪の飛行機事故(カラー写真)」を見る
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日本航空123便が御巣鷹山に墜落
1985年8月12日、日本航空123便が群馬県御巣鷹山に墜落した。当時、現場に駆けつけたカメラマンの生々しい証言から、事故の凄惨さと取材陣の混乱ぶりが浮き彫りになる。
事故発生から約2時間後、カメラマンの橋本氏は編集者からの電話で事態を知る。
「19時ごろ、羽田を飛び立った大阪伊丹空港行きの日本航空123便ジャンボ機が、消息を絶っているらしいよ」
急いで現場に向かう橋本氏だったが、墜落地点の特定には時間がかかった。現地対策本部では、焦りから記者が日航関係者に罵声を浴びせる場面もあった。
「あんたら日航は何をやっているんだ!」
山に墜落ではなく激突したのだ
翌13日の朝、ようやく墜落現場にたどり着いたカメラマン。そこで目にしたのは、想像を絶する光景だった。
「400tのジャンボ機が、墜落ではなく激突したのだ。想像するに、機体重量約500tの半分を占める200t近い航空燃料ケロシンは、尾根に衝突と同時に一面に、爆発的に燃え広がったのだろう」
現場には、バラバラになった機体部品や乗客の荷物、遺体が散乱していた。木の枝にひっかかったままの腕、高熱で炭化した部分遺体など、凄惨な光景が広がっていた。
「目の前に一席の乗客シートが燃えずに残っていた。この光景を見た瞬間、『巨体が空を飛ぶということは大変なことなんだ』と、いまさらながら恐ろしくなった」
この事故で520名の尊い命が失われた。橋本氏の証言は、航空機事故の恐ろしさと、取材陣が直面する過酷な現実を生々しく伝えている。同時に、大型旅客機の運航に潜む危険性についても、改めて考えさせられる内容となっている。
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「文春オンライン」編集部/Webオリジナル(外部転載)