約1億2000万円でエリート官僚に身請けされたが…吉原の花魁・誰袖が辿った「五代目瀬川」より衝撃的な末路


【写真】左から2人目の女性が誰袖

■NHK大河ドラマに突如現れた「誰袖」とは

 瀬川(小芝風花)がいなくなって、花が失われたようだったNHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」だが、あたらしい花=花魁が登場した。蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)が、仲の町に並べられて咲き誇る桜に見惚れていると、肩越しにひとりの娘が飛びついて「蔦重兄さん!」と甘えてみせた。

 蔦重は「かをり」と呼ぶが、彼女が蔦重の口に自分の口を近づけて息を吹きつけると、蔦重は「やめろ、誰袖(たがそで)花魁」と言い直した。かをり改め誰袖(福原遥)である。

 誰袖は「聞きんしたよ、往来物、ずいぶんと上手くいったようで」と言ったあと、歩を進める蔦重の後を追いかけて手をとり、「ところで兄さん、わっちの身請けはいつごろで? このまま商いが上手くいけば、兄さんなら身請けもできんしょ」と問いかけた。

 蔦重は「あのなあ、腐るほど言われてっと思うけど、吉原の男と女郎は」と返したが(吉原の男と女郎の恋愛は厳禁だった)、誰袖は構わず「なにを気弱なことを。次々にあたらしいことを成し遂げてきた兄さんでありんす。そんなしきたりも書き替えてしまいんしょ、2人の愛の力で」と言って、蔦重にしなだれかかる。

 そこに、彼女が所属する大文字屋の遣り手の志げ(山村紅葉)が現れて邪魔に入るが、誰袖は軽くいなして、別れ際にも蔦重に「兄さん、身請け、待っておりんすよ!」と言葉を投げかけた。

 この飄々とした軽さも、世渡りの上手そうな天然のしなやかさも、男への自然な媚びの売り方も、瀬川にはなかった。むろん、「べらぼう」に登場したほかの女郎にもなかった。あたらしいタイプの花魁が登場だが、じつは、かをりはすでに「べらぼう」に登場していた。振袖新造と呼ばれる女郎の見習い時代を、稲垣来泉が演じていた。

 それが成長して、女郎に、それも花魁になったのが誰袖だった。では、誰袖とはどんな花魁だったのだろうか。「わっちの身請けはいつごろで?」というセリフが、彼女の近未来を暗示している。

 誰袖が所属する大文字屋は、伊勢(三重県東部)出身の村田市兵衛が開いた妓楼(遊女屋)である。市兵衛は最初、吉原のなかでも下級の店が並ぶ、西側の河岸と呼ばれるエリアで妓楼を営んでいたが、京町一丁目に見世を移して大文字屋を名乗ると、短時日に吉原有数の大きな妓楼に発展した。

 その婿養子が初代と同じ名を名乗った二代目、大文字屋市兵衛(伊藤淳史)である。

■当時の絵に残された姿

 天明3年(1783)の正月に刊行された蔦重版(耕書堂版)の『吉原細見』には、「大もんじや市兵衛」管轄の女郎として「たがそで」の名が見え、その右上には「よび出し」と書かれている。

 天明のころの吉原では、女郎の序列は上から呼出、昼三、座敷持、部屋持などに分かれていた。このなかでも呼出と昼三は、妓楼で顔見世をして客をとる張見世(はりみせ)をせず、とくに引手茶屋で客に指名されると、つまり呼び出されると、花魁道中をして出向いていくのが呼出だった。

 一般に、上級の女郎である呼出と昼三が花魁で(座敷持までふくめる場合もある)、そのなかでも最高位だったのが呼出だ。すなわち誰袖は最高位の女郎で、大文字屋の看板の花魁だったことになる。

 10歳未満で吉原に売られてきた女児は、禿(かむろ)と呼ばれて、雑用をこなしながら、女郎になるための作法を学んだ。13〜16歳になると女郎の見習いである振袖新造になり、17歳でいっぱしの女郎になるのが一般的だった。誰袖も禿時代から吉原におり、振袖新造を経て呼出になったようだ。

 「べらぼう」にはすでに浮世絵師の北尾政演(古川雄大)が登場している。これは戯作者の山東京伝と同一人物で、その代表作のひとつに吉原の風俗が描かれた『吉原傾城新美人合自筆鏡』がある。もちろん、版元は蔦重の耕書堂で、その「大もんし屋」の女郎たちが描かれた錦絵のなかに「たか袖」、つまり誰袖の姿も描かれている。



Source link