「おにぎり食べたい」書き残し餓死…行政が“生活保護バッシング”に加担し惨劇相次いだ「ヤミの北九州方式」問題から学ぶべき教訓


【図表1】生活保護の不正受給の件数・金額の推移(2013年~2022年)

2007年夏に報じられた、福岡県北九州市小倉北区で52歳の男性が「おにぎり食べたい」と書いた日記を残して餓死した、いわゆる「小倉北餓死事件」です。

実は、この事件は当時、北九州市で発生した数ある悲劇の一つに過ぎませんでした。同市内では2005年以降のわずか3年間に、生活保護を受けられなかったことによる餓死や、生活保護廃止後の自死といった事件が相次ぎ、問題になったのです。その後の生活保護行政のあり方を問う重要な契機となりました。

当時の北九州市には、「ヤミの北九州方式」と呼ばれる独特の生活保護制度の運用システムがあったと指摘されています。この記事では、かつて北九州市で相次いで起きた3つの痛ましい事件を振り返りながら、「ヤミの北九州方式」の実態と、そこから私たちが得るべき「教訓」について考えます。(行政書士・三木ひとみ)

門司餓死事件:「入口」を閉ざす「水際作戦」の悲劇

2006年5月23日、北九州市門司区の市営団地で、56歳の男性マモルさん(仮名)がミイラ化して死亡しているのが発見されました。検視の結果、死因は「うっ血性心不全」とされましたが、極度の栄養失調による「実質的な餓死」でもありました。

マモルさんは右ひざに小児マヒがあり、身体障害者手帳4級を所持していました。タクシー運転手などで生計を立てていましたが、体調が悪化し、2005年8月頃には失業し、無収入に。同年9月には電気・ガス・水道がすべて停止するほどの困窮状態に陥っていました。

マモルさんはこの窮状から抜け出すため、門司福祉事務所へ生活保護の相談に赴きました。2005年9月30日、門司福祉事務所のケースワーカーと保健師がマモルさん宅を訪問しました。

保健師はマモルさんの栄養状態が悪く、病院での診察が必要だと助言しています。そして、マモルさん自身もケースワーカーAに対して、「生活保護を受給したい」旨をはっきりと訴えました。しかし、ケースワーカーAはマモルさんの衰弱状態やライフラインの停止を確認しながらも、所持金の確認など必要な調査を行わず、福祉事務所への来所指導を行うのみでした。

同日夕方、マモルさんは次男に連れられて門司福祉事務所を訪れ、面接主査Bと面談します。マモルさんはここでも再び、明確に「生活保護を申請したい」と訴えました(門司福祉事務所が作成した面接記録票より)。ところが、面接主査Bは「親族でよく話し合いなさい」と、次男による扶養強化を求め、申請書を渡さなかったのです。

その後、マモルさんはお金がないために食料も買えず、病院にも行けず、ライフラインは停止したままで、困窮状態は日を追うごとに悪化していきました。同年12月6日には、次男に連れられて再び門司福祉事務所を訪れ、「手持ち金なく、体も弱っているので保護お願いしたい」と訴え、生活保護を申請。(門司福祉事務所が作成した面接記録票より)。次男からの援助も年末で途切れるという切実な状況でした。

面接主査Bは、マモルさんが痩せて目がくぼんでいるなど、次男の支えがないと厳しい状況にある(北九州市が厚生労働省に提出した調査概要より)ことを認識しながらも、手持ち現金などの調査は行わず、「次男がだめなら長男に援助してもらったらどうか」と、あくまでも親族扶養を申請書交付の要件として求め、結局申請書を交付しませんでした。

付き添っていた次男も、収入は限られており、かつ父であるマモルさん以外に扶養者がいたため、マモルさんへの経済的援助は不可能という状況でした。

冬の12月には電気・ガス・水道全てのライフラインが停止。そして生活保護の申請ができなかったこの時点で、なすすべがなくなりました。

翌2006年5月、マモルさんは死後かなり時間が経ちミイラ化した状態で、住んでいた地域の町内会長によって発見されました。



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