「優秀な同期との出世争い」に敗れた官僚が、「歴史に残る名宰相」の地位を手にするまでの「大逆転劇」


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 だが、戦後期の活躍から導かれるそうした華やかなイメージとは裏腹に、戦前期の吉田は、外務省内で主流とはいえない存在だった。外交官の花形は在外勤務先として欧米に赴くのが常であった当時の外務省にあって(例えば、幣原喜重郎など)、吉田は、むしろ傍流に位置していた。というのも、1906年7月に東京帝国大学法科大学を卒業し、同年9月の第15回外交官及領事官試験に合格した吉田は、同年11月に外務省に出仕すると、領事官補として最初の任地・天津に赴き、以後、約20年にわたって主に中国畑を歩むことになるからである。ちなみに、同期入省の試験合格首席は、広田弘毅だった。

 東方会議終了後には、張作霖の兵工廠への引込線であった京奉線(北京―奉天)の満鉄線横断を阻止しようとするなど、軍部顔負けの強硬ぶりを示したのだった。そのようにして自らの存在を田中にアピールした吉田は、省内の主流派を差し置いて、外務次官の椅子を手に入れることに成功する。むろん、そうした態度は、田中の強硬外交を批判してやまなかった幣原とは相容れなかった。幣原は、「第1次幣原外交」期までの間、吉田を取り立てて重用しようとはしなかった。

 ところが、両者のそうした関係に転機が訪れる。田中内閣が総辞職した後、浜口雄幸内閣の外相に就任した幣原は「第2次幣原外交」の始動に際し、外務次官に吉田をそのまま起用したのである。この人事は、吉田にとってまさかのことだった。田中に取り入ってまで次官に就任した自分を、幣原が留任させる筈がないと考えていたのだ。おそらく幣原としては、外交の継続性を重視して、吉田を次官に留任させたのだろう。要は、外交を政局の外に置くことにしたのである。

 ここに外交官としての吉田の転機があったとみるべきだろう。戦後の回想録ながら、「日本の外交的進路が、英米に対する親善を中心とする明治以来の大道に沿うものであるべき」と語る吉田は、事実、これを機に英米との距離を縮める立場へと変わっていった。たとえば、1931年3月に在イタリア大使に赴任した際には、第1次世界大戦の敗北から立ち直り、急速に軍事力を強化していたドイツに日本が接近することに常に警戒を示したのである。それゆえ、省内の枢軸派からは「親英米派」とみなされた。さらに1936年には在英国大使として赴任する。だが、ここで吉田は対英協調論者として挫折を味わうことになる。

 1934年から36年にかけて、イギリスは大蔵省主導のもと、経済使節団を3度立て続けに訪日させた。とくに、35年・36年と2度にわたって訪日したリース・ロス使節団は、日英協調のプランを携えていた。1度目の訪日時には、

(1)日英共同による中国の幣制改革の実施
(2)中国への借款供与への日本の協力
(3)満洲国に中国の債務を継承・分担させたうえでの中国による満洲国の承認

 という案を示し、日本側の意見を訊いてきたのである。これは、〈間接的な満洲国承認プラン〉とでもいうべき妙手で、満洲国建国以降、国際社会から孤立しつつあった日本に差し伸べられた〈救いの手〉でもあった。

 だが、イギリスの影響力が満洲国へ波及することを恐れた軍部の反対により、日本はこのプランを断ってしまう。その後、対日外交におけるイギリス大蔵省の影響力は減退し、代わって日本を警戒する外務省が主導することとなった。吉田がイギリスに赴任したのは、まさにそうしたタイミングだった。吉田は日英協調を模索したが、もはやそれを実現できる政治・外交的環境ではなかった。何ら有効な手を打てないままに翌年、日中戦争が勃発し、日英関係は悪化の一途を辿る。失意の吉田は1939年に待命大使となり、外交の一線から退いた。終戦間際の1945年4月には、早期終戦を提言する近衛上奏文に協力したことにより、憲兵隊に拘束され40日あまり投獄される。まさに雌伏の時期を余儀なくされたのだった。



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