自動車メーカーの歩みはどのようなものか。モータージャーナリストの鈴木ケンイチさんは「2013年になって日産は、約30年ぶりに世界的に知名度の高いブランドだった『DATSUN(ダットサン)』を格安ブランドとして復活させたが、失敗に終わった。このことからの教訓は、クルマは安さではなくコスパで勝負すべきだということだ」という――。
※本稿は、鈴木ケンイチ『自動車ビジネス』(クロスメディア・パブリッシング)の一部を再編集したものです。
■ダットサンで紐解く日産のあゆみ
かつて日産は、「ダットサン」というブランド名を使っていました。ここでは、日産とダットサンの関係を紹介してゆきましょう。
日産自動車は1933年(昭和8年)に、創業者である鮎川義介氏が率いる戸畑鋳物の自動車部門として誕生しました。それを母体に、同年、自動車製造株式会社が設立され、翌1934年(昭和9年)に日産自動車と変更されます。
三菱財閥の自動車部門が三菱自動車になったように、また、豊田自動織機の自動車部門がトヨタになったのと同じ格好です。ただし、日産自動車は、一からクルマを開発したわけではありませんでした。
日産誕生よりも先となる、1914年(大正3年)に製造された快進社の「DAT(ダット)1号」が、技術的なルーツとなっていました。
「DAT」とは、快進社を支援した田氏、青山氏、竹内氏という3名の頭文字を使ったものです。
そして、1933年の日産創業時に生産されていたのは「DAT」の弟分的な小型車の「DATSUN(ダットサン)12型」でした。
もともとは、「DAT」の息子(SON)という意味で「DATSON(ダットソン)」と名付けられましたが、「ソン」が「損」に通じるため、急遽、太陽の「サン(SUN)」に差し替えられたそうです。
■生産開始から2年で累計生産2万台を突破
その「DATSON12型」は、エンジン排気量748㏄、最高出力9kW(12馬力)、全長2.8m、全幅1.2mというクルマです。いまの軽自動車よりも、一回りも二回りも小さい寸法です。
同じ時代に日本でフォードが生産していた「モデルA」は、エンジン排気量が3286ccで、パワーは30kW(40馬力)、全長が約3.8m、全幅が約1.7mもあって、いまのクルマとそん色ないサイズであったことを考えると、いかに「DATSUN12型」が小さかったことがわかります。
そんな最初の「DATSUN12型」は、生産開始から、わずか2年で累計生産が2万台を突破するヒットモデルとなり、日産自動車のスタートを見事に成功に導いたのです。
その後、日産は「DATSUN」と「ニッサン」の2つのブランドを使って1960年代から世界に進出。
数多く生まれた日産の名車と共に「DATSUN」の名は広く浸透しましたが、80年代以降は「社名とブランド名を統一する」という方針のもと、徐々に使われなくなってしまいました。
■クルマは安さではなく、コスパで勝負すべき
ところが2013年になって日産は、約30年ぶりに「DATSUN」を復活させます。その位置づけは、アジア地域向けのロープライスのエントリーブランドでした。
中核にニッサンをおき、上にインフィニティ、そして下に「DATSUN」という格好です。ところが、この格安ブランドは、失敗に終わります。
2010年代に、何度も筆者はアセアン地域に取材に訪れましたが、街中を走る「DATSUN」を見ることはほとんどありませんでした。そして2022年にはブランドが再び廃止となってしまったのです。
ちなみに、2000年代終盤に、インドのタタという自動車メーカーが「ナノ」という10万ルピー(約30万円)で買える激安のクルマを発表して話題となりました。しかし、「ナノ」もさっぱり売れずに、失敗に終わっています。
やはりクルマは安さで勝負してはいけないのでしょう。安いのが重要ではなく、コスパで勝負すべきです。お客さんに「安かろう、悪かろう」と思われては買ってもらえません。
そういう意味で「DATSUN」は、値段以上の価値を認めてもらえなかったのが失敗の理由だったはずです。
こうやって「DATSUN」の歴史を振り返ってみれば、なんとも日産はもったいないことをしていることに気づきます。
世界的に知名度の高いブランドだった「DATSUN」を、なんのメリットもなく捨ててしまい、そして30年ぶりに復活させたら、安物扱いになってしまって失敗。
ビジネス的にうまくいかなかっただけでなく、日産の宝物である「DATSUN」の価値を貶めてしまったようなものです。もう少し、上手に、そして大切に、ブランド名を使ってほしかったと思うばかりです。