【歴史の転換点から】大獄に死す-松陰と左内の「奇跡」(7)先覚者は孤立し、死生のふちを渡る



「明治維新胎動の地・萩」の遠景=山口県萩市(関厚夫撮影)
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 吉田松陰が主宰した松下村塾同様、世界遺産「明治日本の産業革命遺産」を構成する萩反射炉跡や恵美須ヶ鼻造船所跡にほど近い場所にキャンパスを構える至誠館大学(山口県萩市椿東浦田)。昨年春、国税庁調査査察部長を経て萩市長を6期務めた経歴をもつ野村興児さん(75)が学長に就任した。野村さんについては世界遺産認定をはじめとした市長時代の功績はさておき、査察部長在任中、「金丸脱税事件」にあたって「先駆け」の役割を果たしたことは知る人ぞ知る逸話だろう。

 野村さんは現在、同大吉田松陰研究所長を兼任。また萩の近世・近現代史をテーマにした講座「地域文化」を担当しており、おりにふれて「松陰」を若い世代に伝えている。野村さんは柔和な表情で語る。

 「松陰はなぜ老中襲撃という過激な計画を企てたのか。またなぜ、幕府による取り調べの場で、聞かれもしないのに死を問われる可能性が高かったこの計画を自分の口から話しはじめたのか。その理由や歴史的背景を考えると実に深く、面白いのですが、講義ではそれを詳しく説明し、さらに掘り下げてゆく時間がないのが悩みの種です」

「2つの死罪あり」

 「僕には死に値する罪が2つある。自首しようと思うが、ほかに係累が及ぶことを恐れるため、あえて陳述を控えたい」

 そう松陰が申し立てると、取り調べの奉行は温厚な物腰で「それほどの大罪ではなかろう。述べてみよ」と勧めた。

 「奉行もまた人の心があるはずだ。欺かれたとて『可』としよう」

 そう考えた松陰はまず、尊王攘夷派公卿の大原重徳(しげとみ)を萩に招き、長州藩主、毛利敬親と会談させようと手紙を書いた-と明かす。

 「そうこうしているうちにたまたま、京都にいる間部侯が朝廷を撹乱(かくらん)していると聞き、同志とともに上京し、間部侯を詰問しようと考えた。この2つの件はいずれも実現はせず、僕は萩の野山獄に投獄された」

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