〈《事件から28年》14歳の中学生が児童2人を殺害、切断した11歳の子どもの頭を使って犯行声明…神戸連続児童殺傷事件「少年A」のその後の人生〉 から続く
【衝撃画像・・・】40歳を迎えた少年A(酒鬼薔薇聖斗)とその両親、そして「遺体の一部」を学校にさらされた11歳の子どもの写真をすべて見る
「さあゲームの始まりです」「殺しが愉快でたまらない」――まだ14歳の中学3年生が残忍な方法で児童2名を殺害したことで、世間を驚かせた1997年の酒鬼薔薇事件こと神戸連続児童殺傷事件。当時のメディアや世間は「Aをまるで人知を超えた怪物」のように扱っていたが、その評価は本当に正しかったのか?
長年、少年犯罪を追い続ける毎日新聞の川名壮志氏の新刊 『酒鬼薔薇聖斗は更生したのか:不確かな境界』 (新潮社)より一部抜粋してお届けする。(全3回の3回目/ 最初から読む )
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「さあゲームの始まりです」
それにしても、神戸の事件が起きたのは1997年のこと。四半世紀以上もすぎた事件が、ともすれば、いまだに世間の話題になるのは、なぜだろう。
たしかに、事件は衝撃的だった。
「さあゲームの始まりです」
「殺しが愉快でたまらない」
中学校の校門に放置された小6男児の頭部の口元には、無差別殺人を示唆するような紙片がはさまれていた。Aはみずからを酒鬼薔薇聖斗と称して、「透明な存在であるボクを造り出した義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐も忘れてはいない」と地元の新聞社に声明文を送りつけてもいた。
いわゆる劇場型犯罪だった。
Aが逮捕されるまでの1カ月のあいだ、報道機関だけでなく、世間も、知識人も踊らされた。ミステリーまがいの「犯人」探しがあり、声明文の文面を、名だたる識者が文才があると絶賛した。あの当時、Aはまるで人知を超えた怪物(モンスター)のようなあつかいを受けていた。
しかし、である。
本当に、Aは世間が畏怖するような怪物だったのか。今から考えると、そこに違和感を覚える。
たとえば、識者が舌を巻いた声明文。よくよく読んでみると、じつは当時のマンガや映画で使われたセリフと似通ったものが多く、そこに純粋なオリジナリティーは見いだせない。
「ボクは自分自身の存在に対して人並み以上の執着心を持っている」
そんなふうに自分を特別視し、いたずらに自意識過剰で誇張された文言を使いたがるのは、思春期ならではの傾向で、今では中二病(厨2病)と呼ばれるたぐいのものだ。ちなみに、この言葉がはやったのは、Aの事件の後だ。ネット掲示板「2ちゃんねる」が開設された後、2000年以後とされている。
自己愛と、それに伴う自己肥大や憐憫がにじむ表現は、今では「イタい(痛々しい)」とくくられてしまうにちがいない。
そう考えると、Aの文章が優れていたというより、むしろ当時の知識人が「本物」を見極めることができなかった、というのが実態に近いのではないか。
ただ、少年事件では、少年の実名は明かされないし、大人の刑事裁判にあたる少年審判は非公開だ。本人の実像がわからないだけに、報道も、世間も、見たい怪物像を、Aに投影していたきらいがある。いつの時代でも、肥大化されたイメージに振り回されるのが、少年事件の特徴なのだ。
だが、実際はどうか。
Aとじかに会った関係者が抱いた印象は、むしろ貧弱さだ。