司馬遼太郎の言う「この国のかたち」の根本的な欠陥について


 司馬遼太郎(1923~96年)は、昭和後期から平成前期にかけての国民的作家と言ってよいだろう。初期は「梟の城」(1959年)に代表される奇想天外な忍者小説で名を上げたが、幕末を舞台とした「竜馬がゆく」(1962~66年)や「燃えよ剣」(1962~64年)からは歴史の流れを忠実に追う歴史小説を書くようになった。

 特に、日露戦争で活躍した秋山好古・真之兄弟と同郷の歌人・正岡子規を中心に明治の人々を描く「坂の上の雲」は、近代に目覚め、“日本”という概念で国を統合し、国際社会に進出していく日本を描き、その歴史認識は若干の揶揄(やゆ)も含めつつ「司馬史観」とまで称された。

 晩年は「街道をゆく」「この国のかたち」といった随筆で時事や歴史、風土といったものへの自らの所感を語った。

 今、「この国のかたち」をぼつぼつと読んでいる。

 司馬の随筆「この国のかたち」は、1986年から彼が死去した1996年まで10年にわたって月刊誌「文藝春秋」に連載されたもの。なので、話題はあっちにいきこっちにいきしている。が、通底する問題意識は明確に連載の第1回から第3回までに記述されている。

 第1回は「日本人は、いつも思想はそとからくるものだとおもっている」という言葉から始まり、なのになぜ日本は独自の思想なしに国を形成しえたのか、という疑問を提示する。第2回は、それに対する中国から流入した朱子学をはじめとした思想の影響を分析する。

 その上で第3回において、「日本の近代」と名乗る“巨大な青みどろの不定形なモノ”との対話という小説仕立てで、司馬の問題意識の根幹が提示される。すなわち「日露戦争の勝利から、なぜ40年で、無条件降伏による敗戦にまで滑り落ちてしまったのか。“この国のかたち”が持つ根本的な欠陥はなかったか」という問いだ。そこに司馬は「国家を形成するにあたっての自生の思想の欠如」を見て、主に思想の側からの思索を展開していく。

 この第3回は「一人のヒトラーも出ずに、大勢でこんなばかな四十年を持った国はあるだろうか。」という文で締めくくられる。

●「主観の知」と「客観の知」

 「この国のかたち」において司馬遼太郎は、“この国のかたち”を、思考とか思想とか思惟(しい)とか、つまり人間の頭脳の中で形成されるものから語っている。もちろん彼は、もっと大きくて人間にはどうしようもないもの――地形とか気候とか、要するに「風土」というべきもの――にも十分な注意を払っているのだが、それらは常に「風土を人はどのように捉えて、思考の中に取り込んできたか」という視点から分析している。

 司馬の「あくまで“人間が外界をどのように見るか、捉えるか、理解するか”から始まる“この国のかたちに対する分析”」は、どこか民俗学者・南方熊楠(1867~1941年)の「南方マンダラ」を思い起こさせる(「自民党総裁選と『はだしのゲン』をつなぐ不等式」)。

 南方マンダラは、彼が文理の知、主観・客観の知を一つのパースペクティブ(観点)の中に統合することを夢見ていたことを示す。

 南方においては「物事が自分からどのように見えるかから始まる思考」――主観の知というものが、客観の知と同等の重さを持っていた。南方は幼少時に江戸時代の百科事典である「和漢三才図会」の模写をするところから、知の探求を開始した経歴を持つ。和漢三才図会は、基本的に目に映る自然を主観の側から捉えていったカタログだ。だからその中には、幽霊や人魂のようなものも入っている。

 和漢三才図会から出発した南方熊楠において、主観と客観は対等に拮抗するという発想が自然だったのだろう。このような「主観の知」は、近代以降、民俗学や心理学、社会学として発展していくことになる。

 ところで、南方や司馬が重要視する「主観の知」に対して、「客観の知」というものが存在する。自然科学は、明らかに客観の知の側にある。

 司馬の問題意識である「日露戦争の勝利から、なぜ40年で、無条件降伏による敗戦にまで滑り落ちてしまったのか。そこに“この国のかたち”が持つ根本的な欠陥はなかったか」を客観の知の側から見ていくと、どのようなことが見えてくるだろうか。

 客観の知では、人間がどう考えようがどう感じようが変化することのない、自然の側の事物が観察と思考の対象となる。その意味では「この国のかたち」を考えるにあたって、一番の基本となるのはこの地球という惑星だ。

 地球は、10枚以上の厚さ100kmほどのプレートという岩盤で覆われている。地球の内部ではマントルが対流していて、プレートはマントルの対流により移動している。



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