「戦後日本を代表する知識人」丸山眞男の学説が、「ほぼ完全に否定」されてしまった理由


 高校生の時に読んだ丸山の著書に強い影響を受け、自身も日本政治思想史研究の道に進んだ原武史さんは、新刊『日本政治思想史』(新潮選書)の中で丸山の学説が否定された事例を紹介している。同書から一部を抜粋・再編集して紹介する。

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 日本が太平洋戦争へと突き進んでいった時代に、丸山は自らの研究成果を「近世儒教の発展における徂徠学の特質並にその国学との関連」「近世日本政治思想における「自然」と「作為」」という二つの論文にまとめました。1952年に東京大学出版会から刊行された『日本政治思想史研究』(新装版は1983年に刊行)に収録された二つの論文は、日本政治思想史のモデルとして西洋政治思想史を強く意識し、特に古代ギリシアのアリストテレス、中世のトマス・アクィナス的な「自然」の論理からホッブズの社会契約説に見られる「作為」の論理への転回を近代の政治原理として位置づけ、それに当たる日本政治思想史を江戸時代における朱子学から徂徠学への転回に見いだそうとしたものです。

 ではいったい、丸山の言う「自然」と「作為」とは、どういう意味でしょうか。ここには、政治が行われる共同体や社会を、あらかじめ存在しているもの、つまり所与の「自然」と見なすのか、それとも人工的につくり出されたもの、つまり人間による「作為」と見なすのかという対立軸があります。前者の観点に立てば、既存の階層や秩序は不動の前提になります。しかし後者の観点に立てば、既存の階層や秩序をいったんご破算にし、全く新しい社会をつくり出すことが可能になるわけです。

 丸山は、朱子学の「自然的秩序」と荻生徂徠の「聖人の作為」を対比させました。徂徠は、「道」は朱熹が解釈するような「天地自然の理」のなかにあらかじめ存在するのではなく、中国古代の傑出した統治者である「聖人」が人工的につくり出したと解釈しました。丸山は、徂徠学に見られる「作為」の論理のなかに、西洋の社会契約説へとつながる「近代」の萌芽を見いだそうとしたのです。

 けれども、「作為」の主体を「聖人」だけに限定せず、人民一般にまで広げる社会契約説のような思想は、東洋ではついに生まれませんでした。丸山の後継者に当たる政治学者の渡辺浩は、東大の講義をもとにした『日本政治思想史 十七〜十九世紀』(東京大学出版会、2010年)のなかでこう述べています。
 
「荻生徂徠の思想の根幹は、ときに「近代的」と呼ばれる立場の逆、ほぼ正確な陰画である。すなわち、歴史観としては反進歩・反発展・反成長である。そして、反都市化・反市場経済である。個々人の生活については反「自由」にして反平等であり、被治者については反「啓蒙」である。そして、政治については徹底した反民主主義である。そういうものとして見事に一貫しているのである。」
 
 これは丸山の徂徠解釈に対する、ほぼ完全な否定にほかなりません。いかなる学説も後世の学者によって乗り越えられる宿命にあるとすれば、丸山もまた例外ではないという見方もできるでしょう。戦中期の丸山が強引な徂徠学の解釈をした背景には、政治思想史はすべからく西洋がたどったのと同じ「近代」に向かって進んでゆくはずだとする意識があったように見えます。

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※本記事は、原武史『日本政治思想史』(新潮選書)に基づいて作成したものです。

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