【私たちの中の極右】
# 私たちの中の極右とは?
<筆者のパク・クォニルは記者と公職者を経てメディア社会学者となった。能力主義、極右主義、メディア-感情を主に研究。著書に『私たちが待っていたのはまさに私たちだ』、『韓国の能力主義』、『祝祭と脱力』などがある。
この寄稿では、私たちが目撃している極右がどこに由来し、どのように活性化してきたのかを見ていく。今日の極右現象は、韓国社会にすでに存在していた諸問題が、あたかもうみのように噴き出しているものだ。古くからの反共主義、労働者と人権に対する反感、「悔しかったら出世せよ」という力の論理、腐敗したエリートカルテル、国が主導する世論操作などは、極右が大衆を集める際に用いた最も強力な武器であると同時に、韓国が半世紀以上解決できずにいた恥部であり、患部だった。すなわち、極右は別の星からやって来たのではなく、韓国社会が作り出した現象だ。それは突発的な事件ではなく、歴史的過程だ。極右派を直視するということは、まさにそのような内在的な視点で問題を見つめることだ。極右を「正常な私たち」と明確に区別したり他者化したりする態度では、問題に対応するどころか理解することすらできないだろう。>
■「アスファルト極右」のはじまりは少なくとも2003年
今日の世界は敵対と嫌悪に満ちている。民主主義体制がこれほど危うくみえたことはなかった。トランプを支持する群衆による議会襲撃、トランプの再選と共にはじまった深刻な混乱、名実共に制度圏政治に定着した欧州の極右勢力、内乱を起こし罷免された大統領尹錫悦(ユン・ソクヨル)と裁判所をたたき壊した暴徒たち。これらすべての風景が巨大な一つの流れを成している。トランプとルペンがある日突然登場したわけではないように、韓国の極右も突如として宇宙から降ってきたわけではない。極右勢力が街頭に繰り出して「アスファルト極右」と呼ばれ、市民に衝撃を与えたのは2003年3月1日だ(「反核・反金自由統一 三一節国民大会」)。だから、民主化後の韓国において極右勢力が集結して「実力行使」を開始してから、いくら短く見積もっても20年がはるかに過ぎているということだ。要するに極右は「外来種」ではなく「在来種」であり、突発的事件ではなく歴史的過程なのだ。
本稿は、21世紀の韓国の極右(far-right)現象の多様な内容と共通するかたちを、時には広く、時には深く見つめる。その眺望を貫く最も重要な視点は、おそらく今後うんざりするほど繰り返し述べることになるだろうが、極右を例外的な現象ではなく、すでに存在していた社会構造(制度、文化、イデオロギーなど)の躍動的な産物とみる、というものだ。簡単に言えば、本稿は極右だけの本質的特殊性を認めない。ある人はこう言うかもしれない。極右あるいは極右主義は現行の民主主義制度を否定しているため、他の理念や運動とは明確に区別される特別な事態なのではないか、と。しかしこんにち、民主主義を標榜する国が事実上はエリート寡頭政、あるいは露骨な金権政治(plutocracy)に浸っているということを念頭に置けば、民主主義の実質的内容は民主主義の理念を否定していると考えられるのではないか。ある面で極右は、形骸化してしまった理念は現実に合うよう直すべきだと主張しているわけだが、ならば、極右はとくべつ馴染みのないことを主張しているわけではなく、歴史上に存在したいくつかの急進的現実主義の思想と大きな違いはない。実際のところ、前世紀からこれまでに登場した極右理念は、国や時代状況によって多様な内容とスタイルを持ったが、形式は極めて同語反復的であった。
■今のような極右はいかに登場したのか
したがってこの作業は、今この場所の極右主義がどれほど新しい現象なのかを明らかにするものではない。むしろ焦点は「今のような極右はいかにして登場したのか」、すなわち極右が社会的に活性化し、政治的に結集する条件についての分析に合わせられる。その問題意識は次の問いによって具体化できる。軍部独裁と権威主義政治が終息して一世代がはるかに過ぎ、市民の教育水準と人権意識も比類なき高さを誇る今、いったいなぜ反民主的で反人権的な極右主義に大衆や一部の若者世代までもが魅了されているのか。「民主化後」の主体がどのようにして極右陰謀論と違憲的戒厳に賛同しつつ、「私は啓蒙された」と語るようになったのか。このような事態が宇宙から飛来した謎のウイルスのせいで起きているはずはない。当然のことながら、それは現実に対する強い不満、あるいは社会的圧力によって抑制されてきた衝動が、何らかのきっかけで噴出したものだ。したがって、極右が活性化した条件を探ることは、社会が長きにわたって疑問すら抱かず当然視してきた、すなわち私たちにとって馴染みのある制度と考え方に対する分析となる。また、それは平均的な韓国人、そして「進歩(革新)派」と呼ばれる人々の内面深くに潜んでいる理念の解剖でもある。
■極右の土壌となる「ある進歩主義」
関連して、近ごろ興味深い例があった。最初の例は、批判理論を専攻したという教育学者の大学教授による「息子を極右ユーチューバーから救出してきた」という文章だ。教育専門家であり母親としてこの人物は、息子の成長過程で常に「覚醒している、進歩的な、人権感受性の高い男性に育てるために」努力を惜しまなかったという。「幼い頃から毎日討論したり、息子を連れて世界中を旅して多様な社会や文化を見せたり、時事問題を話し合ったりした。芸術と創意が重要だと考えてクラシック音楽の公演、バレエ公演、ミュージカル公演、国楽公演、美術館や博物館を連れ回した」。ところが、このように大切に育てた息子がある日、極右ユーチューバーにはまった。その時から母親は数カ月間も討論を繰り返し、息子から極右的信念を除去するために血のにじむ努力をし、その結果、息子を「極右の泥沼」から救い出すことができた。
2つ目の例は、進歩系の名望家を親に持つが、尹錫悦弾劾に反対する時局宣言を主導したある20代の若者だ。この若者は、内乱を起こして弾劾され大統領官邸を追われた尹錫悦との「慰労の抱擁」を演出し、各種メディアによって名前と顔が知れわたった。ある極右メディアとのインタビューで、この若者はこう語った。「チョ・グク(元法相)とうちの親は似ている面がある。平等を語るが、自分たちの子どもは何としても『エリート化』しようとしてきた」
上記の二つの例は後に本格的に扱うので、ここでは詳しく論じない。ただし、二つの事例はいずれもいわゆる「民主市民教育」がなぜ失敗するのかをはっきりと示しているという点で、さらには「ある種の進歩主義」が極右の培養土となりうることを示しているという点で、特別な意味がある。これは単に進歩の偽善と傲慢が反感を招くという次元にとどまらず、民主主義の全面的危機という問題設定の座標系において極右がどのような値をとるのかに直結する。極右が民主主義の危機の根本原因なら、極右勢力との戦闘にすべての力を集中すれば済む。しかし、実際はそうではない。
■極右は民主主義の危機の原因ではなく症状
極右は問題の原因あるいは背景というより症状だ。極右が全面化してから民主主義の危機が訪れたのではなく、民主主義の危機の一現象として極右が急浮上したのだ。では問題の真の原因、または背景とは、どのようなものか。それはまさに社会的不平等(分配と認定)、そして差別と排除の論理でそれを正当化する能力主義(meritocracy)だ。世界各国で経済的格差が深刻化するにつれて極右勢力が隆盛したことをみても、極右は不平等の結果に近い。いま韓国社会を支配している規範は民主主義ではなく、勝者独占と自己責任の能力主義だ。民主主義は単に化石となった規範として存在するか、果ては極右のある種のミーム(「民主化」)のように嘲笑と冷笑の対象となっている。能力主義は大多数の平凡な民主主義者に今も公正で正義に満ちた原則として受け入れられている一方、極右主義者には弱者やマイノリティーを差別し嫌悪する正当性を供給する。十数年前、筆者はイルベ(日刊ベスト貯蔵所。極右性向の電子掲示板サイト)を数カ月間にわたって参加観察し、その言説を分析したことがある(「空白をのぞくある方式:ネット右翼という普遍症状」、『いま、ここの極右主義』収録)。
■能力主義、陰謀論、反知性主義などの極右の活性条件
そして、深層において彼らの態度に一貫した説明を与える一つのイデオロギーを発見した。まさに能力主義だ。イルベが弱者に対してためらうことなく嫌悪を吐き出せたのは、能力主義によって彼らを「ただ乗りする人間」と規定しえたからだ。だが実は、イルベはイルベだけに存在するのではない。人間を徹底的に序列化して眺めることによって、民主主義の価値を力説する人々、能力主義と民主主義の間の鋭い緊張を少しも感知できなくなっている「善良な差別主義者」が、韓国には多すぎる。このように、悪意すら抱くことなく身体化された差別・嫌悪の情緒こそ、極右の最も巨大なエネルギー源だ。
極右の活性条件として指摘すべきは、それだけではない。政治的部族主義、陰謀論、反知性主義、認知の枯渇(cognitive exhaustion)などの政治的、言説的、情報環境的な諸要素も大きく作用している。地域共同体の解体、隔離された居住地(gated community)、過剰接続-過少接触のオンライン文化など、構成員の存在(presence)にかかわる社会的変化も、極右と無関係ではない。何よりも、社会統合と平等のビジョンを果敢に提起する影響力のある左派の不在は、市民を分裂させることに特化した極右を唯一の代案勢力にみせるという点で、真剣に省察すべき部分だ。
パク・クォニル|メディア社会学者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )