「東大院の授業『英語化』は大学の存在意義の大きな転換点」東浩紀


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 大学の授業英語化が話題になっている。東大大学院工学系研究科が26年度から原則として授業を英語にすると発表したためだ。

 研究者も英語ができないと話にならない。とはいえ授業がすべて英語はやりすぎではないか。SNSでは賛否両論が渦巻いているが、ここで問われているのは大学の在り方そのものだ。

 研究環境の国際化は予想以上に進んでいる。上記の東大大学院は4割近くが留学生だ。日本の大学院全体でも4分の1が留学生だという。

 いまは各国が優秀な学生を取り合う時代だ。しかし日本の大学は意外と評価が低い。東京大学は24年発表のTHE世界大学ランキングで28位。一時より上昇したが、それでも中国の清華大学や北京大学、シンガポールのシンガポール国立大学に負けている。日本ではほかに京都大学が55位で100位以内は2校だけ。このままではジリ貧との危機感が、国際化の更なる推進を決断させたのだろう。他大も追従する可能性がある。

 それは時代の要請かもしれない。筆者は必ずしも英語化に反対ではない。しかしそれが大学の存在意義の大きな転換であることは自覚すべきだろう。

 大学は中世ヨーロッパで誕生した。起源には国境を越えた世界市民主義がある。学生や研究者が国境を越えて移動する現在の姿は、その点では大学の理念に適っている。

 けれども後発近代化国の日本では、大学はあくまでも国民の啓蒙を担う機関であり続けてきた。戦前の森有礼の帝国臣民化も戦後の南原繁のリベラル市民主義もそこは変わらない。だからこそ、日本にはいまも小学校から大学まで一貫して母語で教育を受けられる環境が整っている。もし今後、東大を含めた一部の大学が、日本人学生の教育より優秀な留学生の獲得を優先する組織に生まれ変わるのだとしたら、それはそんな明治以降の伝統が切断されることを意味している。

 グローバルな競争力確保は大事だ。しかしローカルな足場固めも同じくらい大事だ。トップ大学が後者の役割を縮小するのだとしたら、今後それはどこが担うのかと考える。

※AERA 2025年6月9日号

東浩紀



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