山手線は1909年の命名以来、東京の首都としての大動脈を担い、その発展を支えてきました。現在30の駅を持つこの路線の中で、繁華街として賑わう五反田駅(JY23)は、その駅名の「反」の字が謎を呼ぶ存在です。1911年の開業から現在に至るまで、五反田駅は一体どのような歴史をたどってきたのでしょうか。
五反田駅の誕生と「大崎」の地名問題
五反田駅は1911年10月15日に開業しました。当時は日本鉄道(民営)の国有化から2年後です。駅舎が建てられたのは、荏原郡大崎町大字上大崎字子ノ神下にあたる場所でした。地図研究家の今尾恵介氏は「本来はこちらの方が大崎の駅名を名乗るにふさわしかった」と指摘しています。しかし、1901年にはすでに大崎駅が開業していたため、五反田という別の名称を採用せざるを得ませんでした。
『品川区史 通史編下巻』によると、1921年の五反田駅の乗降者数は合計1万4849人(乗7487人、降7362人)でした。これは、両隣の大崎駅(1万493人)や目黒駅(1万620人)と比較しても遜色ない数字であり、開業から間もないにも関わらず一定の利用があったことを示しています。
1958年当時の五反田駅、山手線の歴史を物語る風景
私鉄接続と市街地化が生んだ発展
五反田駅周辺の急速な発展は、私鉄各線の乗り入れが大きな契機となりました。東京市街地の外縁部を発展させるべく、1923年の目蒲線、1927年の大井町線(現田園都市線)、そして1928年の東急池上線といった私鉄の開通計画が進められました。
特に東急池上線との接続は、五反田駅の利用者数を飛躍的に増加させました。1930年には乗降客数が合計3万4927人(乗1万7582人、降1万7345人)と急増し、その半数が池上線からの乗り換え客だったと記録されています。
五反田駅開設50周年を祝う人々、地域の節目を示す光景
交通機関の発達に加え、1932年には品川町・大井町・大崎町が合併して品川区が成立し、明治時代末まで農村だった駅周辺は住宅地へと変貌を遂げました。さらに、関東大震災で多くの住宅が失われた後、比較的被害の少なかったこのエリアに多くの移住者が流入したことも、五反田の市街地化を加速させました。五反田駅は、こうした時代の波の中で、朝夕のラッシュ時には山手線6両編成が4分ごとに発着する拠点駅となっていきました。
昭和後期から現代への変貌
しかし、時代の流れと共に五反田駅周辺の様相は再び変化します。昭和40年代(1965年頃〜)に入ると、駅近くにオフィスビルの建設ラッシュが起き、それまで多く住んでいた人口は減少傾向となりました。
代わって、銀行や保険会社といった金融関係、さらには飲食業やサービス業などの進出が顕著になります。これにより、五反田はかつての住宅地から、賑やかな商業・歓楽街としての性格を強く持つに至ったのです。
五反田駅前の国道1号線五反田歩道橋、高度経済成長期の交通インフラ
まとめ
五反田駅は、開業当初の農村地帯から、私鉄接続による住宅地化、そして戦後のオフィス化・商業化を経て、多様な顔を持つ現在の姿へと変貌を遂げてきました。その名前の由来は謎めいていますが、駅の歴史は山手線沿線の発展と東京の都市構造の変化を色濃く映し出しています。
参考文献
『品川区史 通史編下巻』
今尾恵介氏の研究/著作
国立国会図書館(写真)
しながわWEB写真館(写真)
時事通信社(写真)