大相撲の横綱・白鵬関が日本相撲協会を退職するという報に接し、筆者はもう相撲を見ないことに決めた。思えば、2010年春に横綱朝青龍が引退して以来、相撲とは距離を置くようになっていた。それまでは日本にいようと、モンゴル国で調査していようと、夕方5時前になるとみんなと一緒にどこかでテレビ中継に夢中になっていたものだ。その時間になると、首都ウランバートルでは車の流れも止まるほどだった。モンゴル出身力士のしこ名も、草原の遊牧民たちは筆者よりも詳しく把握していたほどだ。朝青龍が角界を去った後も、白鵬関が第一線で奮闘しているのを見て、ひそかに応援の拍手を送っていた。2019年4月の静岡場所では、怪我や批判に苦しむ白鵬関の姿を直接目撃することもあった。
筆者自身も、自身の分野である学界で朝青龍関や白鵬関と同じような経験をしてきた。白鵬関の母国の南にある中国内モンゴル自治区から筆者が日本に留学したのは、天安門事件が起きた1989年春のことだ。博士の学位を1994年に取得し、日本の学界への「幕入り」を果たした。その後、モンゴル人の視点から中国政府に批判的な著作を2009年に出版し、翌2010年にはある文学賞を受賞するに至った。
大相撲の横綱・白鵬が幕内優勝45回、通算1093勝という偉業を達成した姿の写真
学界での「外人」としての経験
しかし、「出る杭は打たれる」かのごとく、所属する学会の複数の友人から温かい祝意が寄せられると同時に、「旧帝大への道を閉ざされた」と言われた。「学界の大関」にはなれても、「横綱」にはなれない、というわけだ。もちろん、「学界の横綱」になるのが筆者の夢ではなかった。しかし、研究費の獲得や情報発信力など、様々な条件を考えれば、当然ながら旧帝大系の大学には行きたかったし、そのためのアプローチも試みた。旧帝大の公募人事にも応募したが、例外なく落とされた。研究業績や実力といったものは建前で、実際は人脈や学閥がものをいう世界であることを痛感させられたのだ。
「賞を取って有名になっただけでなく、次から次へと著作を出版する。遠慮なく他人の不正を批判するような人間を、どこの大学も採用しない」と、学会での「師匠筋」にも言われた。そこから、「学界の横綱」になることを諦めた筆者は、地方の国立大学で教育と研究、そして大学行政に専念するようになったのである。
相撲界と学界に共通する壁
日本で筆者が自身の国際経験に基づいて発言すると、周囲の日本人の顰蹙を買うことが多い。しかし、全く同じことを日本人が言えば、その意見はすんなりと採用される。非日本人の筆者の言い方は、当然ながら非日本的で、直截的だったようである。「日本的な会議のやり方も分かっていない」「落としどころを想定した発言になっていない」と、よく批判された。そして、単に意見をぶつけ合っているだけだと筆者が思っていても、周りの日本人はいつの間にか団結し合い、「反外人」の陣営を形成するのだった。筆者は、アカデミックな世界は民族・国籍・人種とは無関係に議論し合える場だと信じていたのだが、周囲には日本人が日本人を守る見えない壁が築かれていたのである。日本人は、制度や規定だけでなく、伝統や「根回し」といった無形の武器を用いて、筆者の周囲に塹壕を掘っていたのだ。
白鵬関や朝青龍関に対する角界や日本社会の接し方は、筆者の経験と完全に一致する。白鵬関と朝青龍関、さらには日馬富士関も含めて、彼らに対する批判は、大体において日本人力士を圧倒し始めた頃に高まる傾向がある。白鵬関の場合、歴代最多の幕内優勝記録を更新し、前人未到の記録を次々と打ち立てようとした際に、あの手この手を使って何とかしてその快進撃を止めようと、様々な声が上がった。
外国人力士への批判の真相
いわく、品格に問題がある、行動が横綱として不適切だ、日本の伝統を無視している、といった具合だ。しかし、これらの域を超えた具体的な批判は見られない。品格とは道徳観念の一つであり、それは民族や地域によって異なり、同じ民族であっても時代によって千差万別なものである。行動となればなおさら、特定の基準を設けるのは難しい。「日本的伝統」といっても、相撲自体がユーラシア大陸にその淵源を持つ歴史的競技だとの見方も存在する。
また、「相撲は神事である」とも主張されることがあるが、もし本当に神事であるならば、そこでの金銭的な営みは禁止されるべきであろうし、現代国家が定める政教分離の原則とも抵触する可能性が出てくる。つまり、「神事」であることを強調することは、他国や他民族の出身者に特定の宗教への服従を暗に強制しているきらいがあるのだ。
批判の根源にある「素朴な嫉妬」
品格や伝統といった言葉を用いた批判は、結局のところ嫉妬の域を出ていない。それは、日本人が築き上げてきた記録を「外人」に破られたくないという、単なる素朴な嫉妬心にすぎないのではないか。白鵬関の引退は、彼が残した偉大な功績と共に、日本社会が成功した外国人に対して時に見せる、こうした複雑な感情や構造的な壁の存在を改めて浮き彫りにしていると言えるだろう。