横須賀線爆破事件:執念の捜査がたどり着いた犯人逮捕の全貌

昭和40年代、日本中で無差別爆弾事件が相次ぎ、社会に大きな衝撃を与えました。こうした悪質な事件に対し、警察は古来より「捜査の王道」とされる「聞き込みによる情報収集」と「鑑識による物的証拠(ブツ)の捜査」を駆使し、犯人を追い詰めました。現代においては防犯カメラの映像や電波による位置情報など、人物特定・追跡のための技術が飛躍的に進化していますが、多くの現役捜査員は「捜査の基本は今も昔も変わらない」と語ります。昭和43年6月に神奈川県で発生した横須賀線爆破事件は、まさに捜査員の粘り強く地を這うような努力が実を結び、犯人逮捕へと繋がった代表的な事件と言えるでしょう。この記事では、その逮捕に至るまでの詳細な捜査過程を紐解きます。(連載第2回)

逮捕劇とその瞬間

昭和43年11月9日午前7時、3人の捜査員が東京都千代田区九段北にある建設会社の宿舎に足を踏み入れました。その時、建設現場へ向かう直前だった若者に対し、捜査員は「神奈川県警察」と印字された警察手帳と恒久用紙を提示しました。「神奈川県警察の者だが。W君だね?」と呼びかけられると、男の顔は一瞬強張ったといいますが、任意同行の求めには素直に応じました。午前9時過ぎ、Wは横浜市内の神奈川県警庁舎に連行され、本格的な取り調べが開始されました。ポリグラフ検査では主要な質問に対し陽性反応が出ましたが、Wは取り調べ官からの問いには一切答えず、うつむいたままでした。昼近くになり「何か食べたいものはあるか?」と聞かれると、Wは即座に「かつどんを食べたい」と答え、差し出されたカツ丼をあっという間にたいらげたといいます(朝日新聞 昭和43年11月10日付朝刊より)。そして午後1時過ぎ、「爆破装置は、私が作りました」と、ついに大工のW(当時25歳、後に死刑確定)の自供が始まったのです。同日の夕方には、爆発物取締罰則違反、殺人、殺人未遂、電車転覆などの複数の容疑で逮捕されました。

粘り強い取り調べと自供

Wの逮捕・自供は突然のことではありませんでした。連載第1回で触れた通り、逮捕の約1カ月前の10月1日には、聞き込み捜査によってWの名前が容疑者として浮上しており、その水面下で徹底した身辺捜査が進められていました。その結果、次のような事実が明らかになっていました。

  • 昭和43年3月から6月末まで、Wは毎日新聞を購読していました。
  • 東京都公安委員会の猟銃所持許可を持ち、事件に使われた無煙火薬を同年3月に立川市内の猟銃店で購入していました。
  • 事件前年の9月まで新宿区内のアパートに住んでいましたが、この時期に爆薬製造に使われるのと同じタイムスイッチを所持していました。また、マンションなどの工事現場で働く大工にとって、犯行に使われた三方継ぎ手(パイプの部品)は容易に入手可能なものでした。
  • 事件の約2か月前、神奈川県藤沢市内のマンション工事現場で働いていた際、工事中のマンション3階で爆発音が聞こえ、「Wがやったのではないか」という噂が流れていました。
  • 電気関係の通信教育を受けており、電気に関する一定の知識を持っていました。
  • 事件当日(昭和43年6月16日)、Wは仕事を休んでいました。

これらの物的証拠や状況証拠に加え、特捜本部の捜査員が特に注目した「被疑者に関する情報」がありました。

捜査線上に浮かんだ容疑者Wと背景

それは、Wの生い立ちに関するものでした。「被疑者は山形県の貧しい農家に生まれ、父親がレイテ島で戦死したため母の手一つで育てられ、幼い頃からおとなしい性格で機械いじりが好きで、中学卒業後は大工として働いていた」(警察庁の資料より)。Wの父親は彼が生まれてわずか9ヶ月後の昭和19年5月に出征し、翌昭和20年3月に戦死しています。そして、横須賀線爆破事件が発生した昭和43年6月16日は、「父の日」でした。この事件で犠牲となった被害者の一人は、入院中の娘を見舞った帰宅途中の出来事でした。さらに遡ると、前年昭和42年6月18日に発生した山陽電鉄爆破事件も、偶然にも「父の日」に起きています。幼少期から父親のいない環境で育ったWが、「父の日」という日付に何らかの強いこだわりを持ち、それが犯行に繋がった可能性も指摘されました。

爆破事件に使用されたとみられる乾電池と時計のぜんまい。鑑識捜査で発見された証拠品。爆破事件に使用されたとみられる乾電池と時計のぜんまい。鑑識捜査で発見された証拠品。

これらの詳細な身辺調査と、取り調べにおける粘り強い追及、そして容疑者の生い立ちや事件発生日の特異性といった様々な情報が結びつき、横須賀線爆破事件の犯人Wの逮捕、そして事件の解決へと至ったのです。

参考文献

  • 朝日新聞 昭和43年11月10日付朝刊
  • 警察庁 資料