沖縄は戦後日本の歪みを一身に背負わされてきました。戦後80年の節目にあたり、現代の諸問題と地続きであるこの歴史、特に太平洋戦争末期の沖縄戦から学び、日本の未来のあり方を描くことが今こそ必要とされています。米軍との激しい地上戦が繰り広げられた沖縄では、軍民合わせて約20万人もの尊い命が失われました。この沖縄戦は、人物や立場、つまりどのような角度から見るかによって、その見え方が大きく異なります。ここでは、沖縄を守備した日本陸軍第32軍の高級参謀、八原博通に着目します。第32軍の「首脳」であった司令官の牛島満、参謀長の長勇、そして八原の中で、沖縄戦を生き抜いたのは八原ただ一人でした。
八原博通の背景と米軍認識
八原博通は1902年、鳥取県米子市に生まれました。勉学に励みましたが、家計に余裕がなかったため、官費で学ぶことができる陸軍士官学校に入学します。同期生は彼の第一印象を「とにかく礼儀正しく、慇懃な物腰で無口な人物だった。(略)内気で自己顕示欲などまるでない性格だった」と回想しています。自己顕示欲に乏しい人物評とは裏腹に、成績は抜群で、陸軍大学校卒業時には49人中優等の成績を収め、恩賜の軍刀を拝受しました。
1933年10月からの約2年間、陸大優等生の特典として米国で学びました。大本営参謀だった杉田一次は、帰国後の八原が話した米国観について強い印象を受けたと語っています。「八原さんは、開口一番、『アメリカ軍の実力は、日本陸軍が考えているような甘いものではないよ』と言われた。それが非常に印象的でした。というのは、われわれの仲間では『アメリカ軍なんて、日本の精鋭が攻撃すりゃ、アワを食ってすぐ逃げるよ』という意見が多かったからです」(『沖縄 悲遇の作戦』新潮社より引用)。この時、米軍を侮ることができないと強く実感していた八原は、その約10年後、まさにその米軍と沖縄で対峙することになります。
第32軍参謀としての戦略転換:持久戦の選択
八原が陸軍大学校の教官から第32軍の高級参謀に転任したのは、1944年3月のことでした。彼は当初、沖縄本島に強固な陣地を構築し、そこに上陸してくる米軍に対して火砲で打撃を与えた後、三個師団の歩兵をもって「撃滅」するという計画を立てました。
しかし、同年11月、フィリピンでのレイテ決戦のために、第32軍隷下の最精鋭部隊であり、兵力の3分の1を占めていた第9師団が台湾に転用されることになります。兵力が大幅に減少した状況で攻勢に出てもすぐに壊滅してしまうと考えた八原は、作戦計画を根本的に変更しました。少ない兵力で徹底した持久戦を展開し、少しでも長く粘って米軍に損害を与え、その後の本土決戦が有利になるようにする、という考えです。この方針転換に伴い、伊江島や北・中飛行場の早期確保は断念し、軍の主力部隊を沖縄本島の南部地域に配置しました。
米軍の上陸と強まる攻勢への圧力
1945年4月1日朝、米軍は沖縄本島中部の上陸地点めがけて、凄まじい艦砲射撃を開始しました。その後、18万人を超える部隊が沖縄本島中部西海岸から上陸作戦を展開し、昼頃までには北・中飛行場を占領しました。
1945年4月1日、沖縄戦で米軍が読谷村から北谷町にかけての海岸に上陸する様子。この上陸後、米軍は速やかに北・中飛行場を占領しました。
早々に北・中飛行場を失うという展開は、八原にとっては想定内でしたが、東京の大本営陸軍部や連合艦隊などには大きな衝撃を与えました。海軍などからは、米軍が北・中飛行場を航空作戦に使用することをあらゆる手段で妨害するよう、強い要請がありました。
第32軍内部でも、この状況を受けて攻勢に出るべきだという意見が強まります。その中で八原は、持久戦こそが最善の策であると言葉を尽くし、「攻勢には絶対反対である」と強く訴え続けました。しかし、長参謀長は八原の意見に耳を貸さず、司令官の牛島も軍の全力をもって北・中飛行場地区に出撃するよう指示を出しました。〝潔く死ぬこと〟を美徳とするような、当時の日本軍に根強くあった観念が、合理的判断に基づく持久戦の貫徹を阻んだのです。八原の手帳に記された「八原君! 君と僕とは常に難局にばかり指し向けられてきた。そしてとうとうこの沖縄で、二人は最後の関頭に立たされてしまった。君にも幾多の考えがあるだろうが、一緒に死のう」という長参謀長の言葉は、その観念を象徴しています。
総攻撃の失敗と戦術の評価
1945年5月4日早朝から始まった日本軍による総攻撃は、悲惨な結果に終わりました。日本軍の戦死者は約5000人にも上り、戦果はほとんどありませんでした。この総攻撃について、米軍の戦史は「5月4日から5日にかけての反攻作戦は、八原の戦術が長の戦術よりも優れていたことを、如実に示したのである」と明確な評価を下しています。八原の強い反対にもかかわらず決行されたこの総攻撃は、完全に失敗に終わったのです。無謀な作戦を推し進めた他の参謀たちについて、八原は後に深く慨嘆しています。
※この記事は、「Wedge」2025年7月号に掲載された特集「終わらない戦争 沖縄が問うこの国のかたち戦後80年特別企画・前編」の内容の一部を公開したものです。特集全文では、八原博通の視点からさらに深く沖縄戦を掘り下げ、その歴史が現代日本に投げかける問いを考察しています。
Source: https://news.yahoo.co.jp/articles/42faf78a191b7e00a45653d9ceabce4ffdf85211