藤堂高虎の革命的な城づくり:今治城が変えた戦国・江戸の常識

全国各地に点在するお城の中で、特に注目すべきは何か。歴史評論家の香原斗志氏は、藤堂高虎が築いた今治城(愛媛県今治市)こそが、それまでの城郭建築の常識を覆す革新的な存在だったと指摘する。この藤堂高虎による今治城は、その後に建てられた江戸城や名古屋城といった主要な城郭の設計思想に大きな影響を与えたのである。

徳川幕府を支えた築城名手の手腕

徳川幕府の基盤となる江戸城(東京都千代田区)の縄張り、すなわち設計図の作成を徳川家康自らが依頼した人物。また、大坂夏の陣後に徳川によって再築された大坂城(大阪市中央区)においても、2代将軍秀忠が縄張りを任せ、石垣や堀の規模を豊臣秀吉時代の2倍にするよう指示した人物。これらはすべて同一人物、藤堂高虎の手腕によるものだった。天下人である徳川が最も重要視した二つの城の設計を任されたことからも、「築城の名手」と呼ばれるにふさわしい、並外れた実力の持ち主であったことがわかる。

藤堂高虎の肖像画。戦国時代から江戸時代にかけての築城名手。藤堂高虎の肖像画。戦国時代から江戸時代にかけての築城名手。

異色の経歴と初期の築城

高虎はもともと武将の家柄ではなく、近江国藤堂村(滋賀県甲良町)の土豪の次男として生まれた。浅井長政をはじめ、次々と主君を変えたが、羽柴秀吉の弟であり、来年のNHK大河ドラマで描かれる羽柴秀長に仕えてからその才能を開花させた。天正13年(1585年)の紀州征伐後に大名となり、秀長の死後はその養子である秀保に仕え、朝鮮出兵(文禄の役)には秀保の名代として出陣している。文禄4年(1595年)に秀保が早世すると、一時出家して高野山に隠棲したが、この時すでに和歌山城(和歌山市)や赤木城(三重県熊野市)などを築いた実績があった。

原点となった赤木城と新たな挑戦

特に、天正17年(1589年)、数え34歳で築いた赤木城は、総石垣で主郭はほぼ正方形、そして虎口(城の出入口)には枡形を採用するなど、後の高虎の築城における重要な原点となった構造が見られる。その後、その才能を惜しんだ豊臣秀吉の命により還俗。同年、伊予国板島(現在の愛媛県宇和島市)に7万石を与えられ、板島城(後の宇和島城)の築城に着手。ここでは北と西を海に面した五角形の縄張りを実現させた。さらに再び朝鮮に出兵した際(慶長の役)には、現地に港を見下ろす堅固な順天城を築くなど、実践を通じて築城技術を一層磨いていった。

常識を覆した水城、今治城

慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦では東軍に属し、その功により戦後、伊予半国20万石という大大名へと取り立てられた。新たな領国の拠点として、高虎がゼロから築いたのが今治城である。この城は、それまでの山城や平山城が主流だった常識を打ち破り、後の城郭のあり方を大きく変えるほど革新的な築城であった。海に面した平地に築かれた今治城の最大の特徴は、その極めてシンプルな縄張りにある。本丸はほぼ正方形で、これに三つの曲輪を加えた内郭全体も正方形に近い形をしている。そして何よりも画期的なのは、この内郭を囲む広大な水堀であった。その幅は実に50〜70メートルにも及び、さらにその三方を中堀、その外側も三方を外堀で囲む(残る一方の海も堀の一部として機能させた)という多重の堀構造を採用したのである。この広大な水堀は、従来の城では見られないものであり、今治城を難攻不落の「水の要塞」たらしめた。この平城かつ広大な水堀を持つ構造は、その後の江戸城や大坂城、名古屋城など、徳川期の主要な城郭に大きな影響を与えることとなる。

藤堂高虎は、主君を渡り歩きながらも常にその才能を認められ、特に築城においてはその時代をリードする革新者であった。彼が今治城で実現した、広大な水堀を最大限に活用する平城の構造は、後の時代に築かれる多くの城郭、特に徳川幕府の権威を示す巨大な城郭建築に多大な影響を与えた。今治城は単なる地方の城ではなく、日本の城づくりの歴史において、まさに革命的な転換点を示す存在と言えるだろう。