大学受験は、多くの10代にとって人生最大の岐路の一つです。良い大学に進むことが、望む職業に就ける可能性を高め、将来の選択肢を広げる一助となるのが現状の日本社会です。それゆえに、大学受験が持つ影響力は非常に大きいと言えます。このような時代背景の中、「自分らしい大学進学」を考えるための書籍『17歳のときに知りたかった受験のこと、人生のこと。』が出版されました。本書は、きれいごとではなく、大学受験や人生の本質に迫る一冊です。今回は、発刊を記念して、著者のびーやま氏への特別インタビューより、特に注目されるテーマであるFラン大学と「地頭」に関する見解をお届けします。
Fラン大学における「地頭」の存在と社会の評価
近年、インターネット上などで「Fラン大学」という言葉が注目を集める一方で、偏差値だけでは測れない「頭のよさ」、いわゆる「地頭」を持つ人がFラン大学にも存在するのではないか、という議論が見られます。著者であるびーやま氏も、この点について「言いたいことはわかる」「たしかに、Fラン大学にも地頭のいい人はいると思います」と、その存在自体は否定しませんでした。
大学受験に悩む学生のイメージ画像
「頭のよさ」を決めるのは「自分」ではなく「社会」
しかし、びーやま氏は続けます。「ただ、僕はその地頭のよさにあまり意味はないと考えています」。その理由として、彼は「頭のよさ」を誰が評価するのか、という根本的な問いを投げかけます。自分で「私は地頭がいい」と主張しても、社会がそれを評価してくれるわけではありません。あくまで「頭の良し悪し」は、社会や他人が判断するものなのです。
仮に、実際に優れた「地頭」があったとしても、それが社会的に認知される形でなければ、残念ながらほとんど意味を持たないというのが彼の見解です。もちろん、その評価の形は学歴だけに限られません。例えば、天才的なひらめきや卓越した思考力が世間に広く認められれば、それは社会がその人の「地頭」を評価したことになります。
この原理、すなわち「頭のよさとは他者や社会による評価である」という点を理解せず、「俺は、私は地頭がいいんだ!」と声高に叫ぶことは、自己満足に過ぎません。もし本当に地頭が良いのであれば、それが他者に伝わるように表現する能力も備わっているはずであり、それができないのであれば、真の意味で社会から評価される「地頭」とは言えない、とびーやま氏は結論付けています。
結局のところ、大学受験における学力も、社会で評価される様々な能力も、その価値は他者や社会がどのように認識し、評価するかにかかっています。「地頭」という内なる能力もまた例外ではなく、それが具体的な成果や他者からの評価という形にならなければ、その存在意義は限定的であると言えるでしょう。びーやま氏の指摘は、単なる受験テクニックではなく、社会における自身の能力や「頭のよさ」をどのように捉え、示していくべきかという、より本質的な問いを私たちに投げかけています。