フジテレビが中居正広による「性暴力」問題をきっかけに経営危機に陥ってから半年、最も存在感を増した人物と言えば、1月27日に急きょ社長に就いた清水賢治(64)だろう。
【写真】いまもグループの美術・芸術系の役職を手放していない日枝久氏
6月25日の株主総会、その後の記者会見では、現経営陣を厳しく追及する質問にも感情を抑えて淡々と答える姿勢を取り続けた。総会に出席した堀江貴文は、清水が協業に前向きな姿勢を示したこともあって、その手腕を高く評価してみせた。
外国ファンドが立てた北尾吉孝(SBIホールディングス会長兼社長)などの取締役候補が惨敗し、清水をフジ・メディア・ホールディングス社長とする経営陣が8割超の株主の賛成を得たことで、清水体制はひとまず整ったと言える。
だが、それは長く君臨した日枝久の統治から脱したように見えて、フジサンケイグループの今後も続く混迷の過渡期に過ぎない。
清水の人物評はこの間、もっぱらアニメのヒット番組の立役者として報じられてきた。ただ、彼の資質については、全く知られていない経歴に着目した方が理解しやすいかもしれない。ここ何代かの経営トップと比べると、異質の部類に入るだろう。
フジテレビが視聴率三冠王になった直後に入社
清水がフジテレビに入社した1983年と言えば、直前に開局以来初の“視聴率三冠王”(82年)を獲得するなど、人気バラエティを武器にフジテレビの常勝(その後12年間、三冠王)が始まった時期だ。
そのせいか34人の新入社員の多くは自己紹介で、好きな番組に自局のバラエティを挙げる中、清水は異質だった。真っ先に「NHK特集」「ルポルタージュにっぽん」などのドキュメンタリーを挙げている。例えば、世界不況を扱ったNHK特集で各国局の「独自ルポを同時に放映することで、同じ問題でも様々な視点があることを視聴者に実感させた」と評している(『フジテレビ社内ニュース』83年新人特集号)。
こうした着眼姿勢は、清水が小学4年から中学2年までの多感な少年時代、パリで暮らしたことと無縁ではないだろう。父親の清水邦男は当時、産経新聞パリ支局長であり、清水はその赴任に伴って70年代初めのフランス、“パリ五月革命”後のポスト政治の季節を経験したことになる。
邦男はパリ赴任前は、ベトナム戦争時のサイゴン特派員も経験、その後も外信部長など国際畑を歩み、退職後もパリで暮らし在住は20年に及んだ。欧米人の思考性や価値観と日本との違いに通暁しており、そうした父親の知的蓄積は、身近にいた清水少年がものごとを見る立ち位置に影響しているのかもしれない。