タイ・カンボジア国境対立が激化、国内政局にも飛び火 その背景を専門家が分析

タイとカンボジアの間で国境を巡る対立が再燃し、深刻化しています。長年の領有権争いが原因で発生した武力衝突をきっかけに、両国は輸出品に対する措置をかけ合うなど経済的な緊張を高め、国境閉鎖という事態に至りました。この問題はタイ国内の政治にも波及し、特にセター首相の辞任を求める声が高まるなど、政局の不安定化を招いています。なぜ両国関係はこれほどまでにこじれ、タイの国内情勢に影響を与えているのでしょうか。タイ政治の専門家である法政大学の浅見靖仁教授に、その背景と今後の展望について話を伺いました。

タイとカンボジアの国境地帯、特に係争地とされる地域で5月末に銃撃戦が発生し、カンボジア兵1名が死亡しました。この地域では、国境線の解釈の違いから小規模な越境やそれに伴う衝突は過去にも繰り返し起きており、今回の事案も空爆を伴うような大規模な全面衝突に直結する可能性のあるものではありませんでした。しかし、事態は予期せぬ形で政治問題へと発展します。

6月18日、タイのセター首相とカンボジアのフン・セン前首相との電話協議の音声が流出しました。この音声の中で、セター首相が自国の軍隊の対応を批判する発言があったとされ、タイ国内で大きな波紋を呼びました。「首相辞任は避けられない」と見られるほど、セター政権は危機的な状況に追い込まれましたが、首相はその後続投を表明しました。タイ軍の主流派も現時点では政権を支持する姿勢を示しており、政権の行方は依然として不透明であるものの、当面は現首相が政権を維持する可能性が高いという見方が広がっています。音声流出の背後にはフン・セン氏の意図があったとの見方もあり、「すぐに首相を変えればフン・セン氏の思うつぼになる」という判断も影響したと考えられます。

タイ東部アランヤプラテート、カンボジアとの国境検問所で柵を閉じるタイ側係員たちの様子タイ東部アランヤプラテート、カンボジアとの国境検問所で柵を閉じるタイ側係員たちの様子

今回の国境問題が、なぜこれほどまでにタイの内政を混乱させる事態に発展したのでしょうか。そこには、タイ軍内部やメディア、官僚機構などに根強く残る「反タクシン派」勢力の存在が大きく関わっている可能性があります。今回の銃撃戦を最初に大きく報じ、問題を煽るような報道を行ったのはタイ国内のメディアでした。セター首相が所属する政党は、タクシン元首相に近い「タクシン派」が主導しており、政権としてはこの国境での小規模な事案を穏便に収束させたかったと考えられます。しかし、反タクシン派はこれを利用しました。

彼らは、「タクシン氏はカンボジアのフン・セン氏と個人的な関係が近い」「現政権に影響力を持つタクシン氏がその関係に基づき、カンボジアに対して譲歩をするのではないか」といった主張を展開しました。こうした主張は、タイ国内で長年続いているタクシン氏に対する批判の主要な論点のひとつであり、国民感情に訴えかける力を持っています。反タクシン派は、国境問題という「ナショナリズム」を刺激する題材を用いることで、自らの主張を国民に浸透させようと試みたのです。

反タクシン派とは、具体的にどのような勢力なのでしょうか。彼らは多岐にわたりますが、例えば過去に親軍政党を率いたプラウィット元副首相のように、タクシン氏に対して個人的な恨みや対抗意識を抱いている元軍関係者や政治家が含まれます。また、官僚機構や一部メディアにも、過去のタクシン政権下での経験から、「タクシン派にお灸を据えたい」「彼らの影響力を削ぎたい」と考える勢力が存在します。彼らは、国民の愛国心やナショナリズムを刺激するような形で、タクシン派政権の外交手腕や対応を批判し、世論を味方につけようとします。

今回の件では、「軍の一部が政権に従わない動きを見せている」という指摘も聞かれます。実際、タイ軍内部にはタクシン氏を快く思わない人物が多く存在し、特にプラウィット元副首相は係争地域に展開する軍部隊に対して依然として強い影響力を持っています。このため、今回の政権の対応に対して、軍の一部が非協力的な姿勢を見せた面はあったと考えられます。ただし、現時点でタイ軍全体がセター政権に対して明確な不服従の姿勢を示しているわけではありません。軍や王室は、タクシン派政権をあまりにも弱体化させすぎると、次期総選挙において軍や王室の改革を強く主張する最大野党が議席を大幅に増やす可能性が高まることを危惧しています。そのため、タクシン派と反タクシン派、そして軍や王室といった各勢力の間の複雑な力学が働いており、事態の行方は予断を許しません。

今回のタイとカンボジアの国境を巡る対立は、単なる領有権問題にとどまらず、タイ国内の根深い政治対立、特にタクシン元首相を巡る派閥間の争いが複雑に絡み合ってエスカレートした側面が強いと言えます。小規模な武力衝突が、音声流出をきっかけに反タクシン派による政権攻撃の材料として利用され、タイ国内の政治危機に発展しました。タイ政局の安定は、この国境問題の行方、そしてタクシン派と反タクシン派、軍、王室といった各勢力の今後の動きによって大きく左右されるでしょう。

出典:朝日新聞社(Yahoo!ニュースより)