通勤電車での善行が、思わぬ代償を伴うことがある。泥酔客から女性を救助しようとして骨折した男性が、労働災害(労災)としての「通勤災害」を申請するも不支給決定を受け、国を提訴したケースや、トー横キッズの相談に乗っていて理不尽な暴力に遭ったケースなど、人情による行いが法的に守られない現実がある。本稿は、日本経済新聞「揺れた天秤」取材班による書籍『まさか私がクビですか?なぜか裁判沙汰になった人たちの告白』より、実際に起きた事件を基に、善意の行動と法の狭間にある問題を掘り下げる。
善行によって通勤中にトラブルに巻き込まれ労災申請するイメージ写真
通勤電車内での善行、そして代償
事の発端は2019年12月、日曜日の未明に発生した。山手線の車内は比較的空いており、飲食店勤務の50代男性は空席に座って帰路についていた。まもなく隣の駅に差し掛かった頃、向かいの席に座る泥酔した様子の男性が、隣の女性に顔を近づける迷惑行為を目撃する。女性は困惑し、助けを求めるように周囲に視線を送っていた。
周囲に誰も注意する者がいない状況を見て、「他に助ける人がいないなら」と考えた男性は、席を立って泥酔客に「何をしているんですか」と尋ねた。男は寝たふりをするも、男性が女性に警察を呼ぶか尋ねると女性は恐怖で硬直していた。事態を収拾するため、男性は男に「次の駅でおりて頭でも冷やしなさい」と忠告。男は一度は応じたが、駅に到着するとホームから「おりてこい」などと叫び始めた。男性が車内から「その場で酔いを覚ますように」と促したその瞬間、男はホームから電車に駆け込み、男性の左足を蹴りつけた。
衝撃で倒れ込んだ男性は、ホームへ逃げた男を追いかけ、もみ合いの末に取り押さえ、駅係員に警察への連絡を依頼した。その後、病院へ搬送された男性はすねの骨折と診断され、約3カ月の欠勤を余儀なくされた。男性は勤務先にも相談の上、このケガが通勤災害に当たるとし、療養補償や休業補償などを労働基準監督署(労基署)に申請した。
しかし、2020年7月、労基署はこの申請を不支給と決定した。男性が不服を申し立てても認められなかったため、2021年9月、男性はこの不支給処分の取り消しを求めて国を相手取り提訴に踏み切った。
「通勤災害」認定の壁
通勤災害として認定されるには、法律で定められたいくつかの条件を満たす必要がある。例えば、通勤経路から外れて寄り道をした場合、その行為が「日常生活上必要な行為であって、厚生労働省令で定めるもの」かつ「最小限度」でなければ、その後の経路は通勤とみなされない場合があり、負傷しても補償の対象外となる。また、負傷と通勤との間に因果関係があること、具体的には「通勤に通常伴う危険が具体化した」と言えることが求められる。
今回の訴訟では主に、(1)男性が負傷した行為が法律上の「通勤」中に行われたと言えるか、(2)ケガが「通勤に通常伴う危険が具体化した」ものと認められるか――の2点が争点となった。
男性側は、通勤中の電車内で迷惑行為に遭遇することは日常的に起こり得る出来事であり、泥酔客への注意はそうした状況下で必要最低限度の行動だったと主張した。「通勤による負傷に該当し、通勤災害と認めなかった労基署の処分は取り消されるべきである」と強く訴えた。
一方、国側は、男性の行為はたまたま乗り合わせた女性の安全確保を目的としたものであり、男性自身が通勤を継続する上で障害となるものを排除するなど、通勤を遂行するために不可欠な行為だったとは言いがたいと反論した。この点が、通勤災害の認定において大きな壁となっていることを示唆している。
結論
通勤電車内での善行が原因で負傷した男性のケースは、「通勤災害」認定の厳格な要件と、人情による行動が法的にどのように評価されるかという問題提起を含んでいる。労基署の不支給決定に対し、男性は裁判を通じてその正当性を争っている。この裁判の結果は、通勤中の偶発的な出来事や第三者への援助が、通勤災害の範囲に含まれるかどうかの解釈に影響を与える可能性があり、多くの通勤者や今後の同様のケースにとって注目される。善意の行動が法的な保護の対象となるか否か、この事例は「揺れた天秤」の象徴と言えるだろう。
参考文献
- 日本経済新聞「揺れた天秤」取材班『まさか私がクビですか?なぜか裁判沙汰になった人たちの告白』(日本経済新聞出版)