三笠宮家「分裂」の深層:彬子さま当主就任と信子さま新家創設の背景

「ヒゲの殿下」として親しまれた寬仁親王(2012年薨去)の第一女子である彬子さま(43)が、当主不在となっていた三笠宮家の新当主に就任されたことが発表されました。同時に、信子さま(70)は同家を離れ、「三笠宮寬仁親王妃家」を創設し、その当主となられます。この母娘間の「分裂」ともいえる状況は、一体どこから生まれたのでしょうか。本記事では、この背景にある三笠宮家の歴史と、麻生家との深い関係を紐解きます。

「ヒゲの殿下」寬仁親王殿下の生涯と麻生家との縁談

寬仁親王殿下の生い立ちと個性

三笠宮家の現在の状況を理解するには、故寬仁親王殿下の生前から続くファミリーヒストリーを遡る必要があります。寬仁親王殿下は1946年1月、大正天皇の第四男子である三笠宮崇仁親王と百合子妃の第一男子として誕生しました。父である三笠宮崇仁親王は、軍人から戦後に古代オリエント史の研究者へと転身され、皇室では初めて一般家庭と同じように親子一緒に暮らすという方針をとられました。

学習院高等科時代には既に「ヒゲの殿下」として知られるようになり、この髭は生涯のトレードマークとなります。ご自身で酒やタバコも愛飲されていたことを明かされています。1968年に学習院大学を卒業された寬仁親王殿下は、同年4月から2年半にわたり、英国オックスフォード大学へ留学されました。

「ヒゲの殿下」として知られた寬仁親王「ヒゲの殿下」として知られた寬仁親王

留学と麻生家との深まる関係

この英国留学を機に、後に姻戚関係となる麻生家との関係が深く築かれました。寬仁親王殿下の著書『トモさんのえげれす留学』(1971年)には、麻生家の人々が頻繁に登場します。英国での保証人選定に奔走したのは、吉田茂元首相の三女である麻生和子氏でした。寬仁親王殿下が英国へ出発される当日には、秩父宮邸で和子氏の長女である雪子氏と共に茶を飲み、空港では夫である太賀吉氏(後の麻生セメント会長、衆議院議員)と見送りに立たれたといいます。

さらに1969年には、和子氏の三男である泰氏(現・株式会社麻生会長)が留学のため渡英し、寬仁親王殿下と同じ家で生活を共にすることになります。同書の中で、寬仁親王殿下は泰氏について「彼のお家の方々は皇室、皇族に近く、それらに対するしっかりした考え方をもっておられる数少ない一家である」と紹介しています。

そして、留学中に和子氏の長男で、現・自民党副総裁である麻生太郎氏と交わした会話を、寬仁親王殿下は著書『皇族の「公(おおやけ)」と「私(わたくし)」(工藤美代子氏との共著、2009年)』で回想されています。「私の部屋で一緒にウイスキーを飲みながら語らっているうちに、『殿下のご結婚相手は、うちの妹ぐらいしかいませんよね』という話になったんです。いま彼にその話をしても、『そんなことはいっていません』ととぼけるんですけれど(笑)」と綴られており、その妹こそが、麻生家の第六子で末っ子の信子さまでした。

結論

寬仁親王殿下の自由闊達なご性格と、学生時代の英国留学を通じて築かれた麻生家との深い絆は、現在の三笠宮家の家族構成と「分裂」の背景を理解する上で極めて重要な要素です。彬子さまの当主就任、そして信子さまが新たな家を創設されるという今回の発表は、単なる表面的な出来事ではなく、長きにわたる歴史と人間関係の積み重ねの上に成り立っていると言えるでしょう。