歴史と食を繋ぐ「駅弁」の物語:鉄道が育んだ「あじ寿司」の世界

鉄道と食事。この二つが交差する場所には、日本の豊かな歴史と文化が息づいています。政治学者であり、「鉄学者」としても知られる原武史氏の新著『歴史のダイヤグラム 3号車』は、教科書には載らない日本の近現代史を鉄道の視点から紐解いています。本書で語られる数々の興味深いエピソードの中から、今回は「食事と鉄道」、特に日本の駅弁文化において特別な存在である「あじ寿司」に焦点を当ててご紹介します。単なる郷土料理に留まらない「あじ寿司」が、いかに鉄道と共に時代を駆け抜けてきたのかを探ります。

皇族も愛した歴史的な「あじ寿司駅弁」

1933年(昭和8年)12月22日、昭和天皇の弟である高松宮宣仁親王は、その日記に各地の駅の名物を列挙しています。その筆頭に挙げられたのが、東海道本線の国府津駅で販売されていた「あぢすし」でした。この記述は、「あじ寿司」が古くから日本の食文化、特に鉄道旅行における重要な一部であったことを物語っています。

国府津駅では現在も「小鰺押寿司」が販売されており、その歴史は1888年(明治21年)に駅弁販売を開始した東華軒に遡ります。東海道本線で最も早く駅弁を手がけたとされる同社は、1903年には早くも関西風の押し寿司である小鰺の駅弁を名物として売り出しました。

東華軒から遅れること10年、同じ東海道本線の大船駅で大船軒が駅弁販売を開始しました。1913年(大正2年)には、東華軒に対抗するかのように「鰺の押寿し」を発売。こちらも現在では大船駅を代表する名物駅弁として広く知られています。これら二つの「あじ寿司」は、長年にわたり相模湾で獲れる新鮮な鰺を使用してきました。

歴史と鉄道、そして食事:日本の駅弁文化の象徴歴史と鉄道、そして食事:日本の駅弁文化の象徴

地域性と多様性を示す「あじ寿司」の進化

相模湾の「あじ寿司」が定着する一方、駿河湾で獲れる鰺を用いた独自の「あじ寿司」も登場しました。1891年創業の桃中軒は、2003年(平成15年)から東海道本線の沼津駅や三島駅などで「港あじ鮨」を販売しています。こちらは従来の押し寿司とは異なり、にぎり寿司や太巻きなど、様々なスタイルで提供されているのが特徴です。

さらに、JRではなく伊豆箱根鉄道の修善寺駅にも、もう一つの「あじ寿司」があります。駿河湾の鰺を使用している点は「港あじ鮨」と同じですが、武士家(たけしけ)という家族経営の小さな駅弁店が手作りしている点がユニークです。

原武史氏は、この修善寺駅の「あじ寿司」を味わうために実際に駅を訪れています。改札横の駅弁売り場で見つけたその弁当は、想像よりも小ぶりだったものの、特急「踊り子4号」の車内で蓋を開けると、ご飯が見えないほどぎっしりと鰺が敷き詰められていました。沼津港で獲れたばかりの新鮮な鰺だといいます。そして驚くことに、これは押し寿司でもにぎり寿司でもなく、まるでちらし寿司のようなスタイルでした。添えられたわさび、生姜、桜葉、レモンが彩りを加え、ご飯や醤油も含めてすべて地元産にこだわっている点も特筆すべきです。

このように、「あじ寿司」一つをとっても、地域ごとの特色や作り手のこだわり、そして時代と共に変化する多様なスタイルが存在することが分かります。鉄道網の発展が、これらの地域色豊かな駅弁を生み出し、広めてきた歴史は、日本の食文化と社会の繋がりを映し出しています。

歴史の証人とも言える駅弁「あじ寿司」を通じて、鉄道旅行の魅力とともに、地域に根差した食文化の奥深さを改めて感じることができます。

参考文献

原武史『歴史のダイヤグラム 3号車』