11日夜、映画「キングダム 大将軍の帰還」が地上波で初放送されることとなり、『キングダム』が大きな注目を集めている。同作では山﨑賢人さん演じる主人公・信(しん)の勇猛果敢な姿が見どころの一つだが、史実においてはどのような活躍をしていたのだろうか。映画『キングダム』シリーズの中国史監修を務めた学習院大学名誉教授・鶴間和幸さんは、「秦王嬴政からの信頼は厚かった」と指摘する。将軍たちの史実を解説した新書『始皇帝の戦争と将軍たち ーー秦の中華統一を支えた近臣集団』(朝日新書)から、一部抜粋して解説する。
李信:若き統一戦争の担い手
李信は、秦王嬴政(後の始皇帝)による中華統一の初期から活躍した若き将軍である。紀元前228年、老将・王翦(おうせん)が総指揮を執り、楊端和(ようたんわ)、羌瘣(きょうかい)らと共に数十万の兵力で趙の都・邯鄲(かんたん)を攻撃し、趙王・遷を捕虜とした戦いがあった。この時、李信は王翦本軍とは別の動きとして、趙の北部にあたる泰原や雲中を攻撃していた。これは、趙の最大の敵将であった李牧(りぼく)軍を北辺から牽制する役割を担っていたと考えられている。
翌紀元前227年、秦王嬴政への暗殺未遂事件(荊軻による)が発生した後、嬴政は王翦に燕への攻撃を命じ、王翦は翌年には燕の都・薊(けい)を陥落させ、太子丹(たん)の首を得たと「秦始皇本紀」は記す。一方で、「刺客列伝」によれば、李信が遼東へ逃れた燕王と太子丹を追撃し、燕王自身が太子丹を斬首して秦に献上することでその首を得たとしている。王翦が燕都を陥落させたのみで帰還したのに対し、若き李信は数千の兵力で果敢に王と太子を追ったのである。ここでも、王翦と李信の動きには距離が見て取れる。年若くとも勇猛な李信に対し、秦王嬴政は深い信頼と称賛を寄せていたことがうかがえる。
その後、紀元前224年に南の大国・楚への攻撃を計画する際、嬴政は老将軍の王翦と李信それぞれに必要な兵力について尋ねた。この時、嬴政は36歳、同世代の李信は20万の兵力で十分と答えた。対して、老齢の王翦は60万の兵力が必須だと答えた。嬴政は若い李信に楚攻略を委ねることを決断した。李信は蒙恬(もうてん)と共に20万の兵を率いて楚へ攻め込んだものの、楚軍の巧みな反撃により両軍は分断され、秦軍は決定的な敗北を喫してしまった。この結果を受け、秦王嬴政は改めて王翦に兵を委ねることになり、王翦によって楚は滅亡へと導かれることとなる。
李信はその後、王翦の子である王賁(おうほん)と共に燕・斉といった残りの国を平定する戦いに加わり、中華統一の実現に貢献した。結果として、彼は六国のうち楚・燕・斉の三国を滅ぼした武将の一人となったのである。統一後の李信の正確な動向は史書に詳述されていないが、子孫には前漢の名将・李広(りこう)がいる。李氏が槐里から隴西郡成紀県に移住したという記述から、李信はもともと秦の内史(畿内)にあたる廃丘県(後の漢の槐里県、秦都咸陽の西)の出身であったと考えられている。王翦・王賁一族と同様に、彼もまた秦生え抜きの将軍であり、秦王嬴政からの信頼は非常に厚かった。
王翦と李信の対楚戦略:廟算の差
秦王(36歳)と老将・王翦、そして壮年将軍・李信の間で繰り広げられた対楚戦を巡る戦略上の駆け引きは、「王翦列伝」に詳しく記されている。秦王が両者を呼び寄せ、楚を攻めるのに必要な兵数を問うた場面である。李信は20万の兵で事足りると進言したのに対し、王翦は60万でなければ不可能だと答えた。王翦は、戦いが始まる前から極めて綿密な「廟算」(びょうさん:戦前の周到な計算や計画)に基づいた数値を提示したのであろう。しかし、秦王は李信の若い力に期待し、彼に楚攻略を任せることを選び、王翦は病気を理由に故郷へ帰った。
筆者はこれまで、経験豊富な老獪な王翦が60万、対する李信が若さゆえの過信から20万という数字を漠然と挙げたに過ぎないと考えていた。しかし、改めて史料を読み解くうちに、王翦の60万という数字には確固たる根拠が存在したのだと考えるに至った。
当時の秦と楚は、互いに拮抗する巨大な軍事力を有する大国であった。「帯甲」(よろいをまとった正規兵)は100万、戦車は1000乗、騎兵は1万匹(馬の数)と称されるほどであった。両国の相違点は、秦の本土が周囲2500里という「四塞の地」(四方を山河に囲まれた天然の要害)であるのに対し、楚は周囲5000余里にも及ぶ広大な土地を領有していたことにある。
100万の軍事力を持つ秦本土から、その半数以上にあたる60万もの兵力を楚へと動員することは、それまでの秦の軍事行動では前例のない、極めて大規模な作戦であった。しかし当時の状況は、韓・趙・魏という中原の三国(三晋)がすでに秦によって滅ぼされており、残る大国は燕・斉と、そして最大の敵である楚だけであった。この機を捉え、秦は本土を守るための最小限の兵力を残し、軍事大国である楚を滅ぼすためにほぼ全ての軍事力を総動員しようとしたのである。
李信が提唱した20万という兵力も、彼なりの計算に基づいた数字ではあったのだろう。しかし王翦は、楚が有する100万という総軍事力に対抗するには、20万ではあまりにも無謀であると判断したのである。案の定、20万の李信軍は楚軍に敗北を喫する結果となった。20万という兵力をさらに李信と蒙恬の二軍に分割して攻撃する作戦は、期待通りに機能しなかった。特に、三日三晩昼夜を分かたず果敢に攻めかかってきた楚軍の反撃に、秦軍は持ちこたえることができなかったのである。
先に秦王は王翦に対し、自身の将軍に対する「計」を用いなかったがために、李信が秦軍を辱める結果となってしまったと謝罪した。「計」とは、単なる漠然とした軍の「計略」を指すのではなく、王翦がはじき出した60万という具体的な「計算」を指しているのだろう。
朝日新書『始皇帝の戦争と将軍たち』では、羌瘣、王齮(おうき)、龐煖(ほうけん)、楊端和らといった名将軍たちの、史実における詳細な活躍について詳述している。
参考文献
- 鶴間和幸 著『始皇帝の戦争と将軍たち ーー秦の中華統一を支えた近臣集団』(朝日新書)
- キングダムの「信」こと李信の史実とは?王翦との違い、始皇帝との関係性を専門家が解説