伝説的ドラマー・アヒト・イナザワ、難病ジストニアで活動中止の深層《単独インタビュー》

1990年代から2000年代初頭のライブシーンに一時代を築き、椎名林檎や星野源といったトップアーティストにも多大な影響を与えたとされる伝説的バンド「NUMBER GIRL(ナンバーガール)」、そして「ZAZEN BOYS(ザゼンボーイズ)」でドラムを務めてきたアヒト・イナザワ氏(52)が、この3月に自身のX(旧Twitter)で衝撃的な発表を行いました。「ジストニア悪化の為すべてのドラム活動を中止致します。苦渋の決断ですが、残念ながらこれが現実でございます」――。長年、音楽と向き合い、ファンを熱狂させてきた彼のキャリアを襲った「ジストニア」とは一体どのような病なのでしょうか。そして、その胸中には何があるのでしょうか。今回、日本ニュース24時間では、アヒト氏への単独インタビューを通じて、その深層に迫ります。

アヒト・イナザワ氏、難病「ジストニア」との長い戦い

アヒト氏が自身のドラム活動の中止を発表した背景には、難病として知られる「ジストニア」との長年にわたる闘いがありました。彼はバンド活動を振り返り、「自分にとってバンド活動は、音楽との戦いというよりも、ジストニアとの戦いの方が比重が大きかったです」と語っています。ジストニアは、脳の機能障害により、筋肉が自分の意思とは関係なく収縮し、体がねじれたり、不自然な姿勢になったりする神経系の疾患であり、特に音楽家にとっては致命的な影響を及ぼすことがあります。その症状が悪化し、全てのドラム活動を中止せざるを得ないという「苦渋の決断」が下されたことは、彼自身の、そして音楽業界にとっても大きな衝撃となっています。

アヒト・イナザワ氏、難病ジストニアのためドラム活動中止を発表した姿アヒト・イナザワ氏、難病ジストニアのためドラム活動中止を発表した姿

伝説のバンド「NUMBER GIRL」の軌跡とドラムとの出会い

アヒト氏がその名を轟かせた「NUMBER GIRL」は、前衛的な歌詞と唯一無二のギタースタイルで瞬く間に若者たちを熱中させた、まさに伝説的なバンドです。彼らの音楽は、日本のロックシーンに新たな風を吹き込み、後の多くのアーティストに影響を与えました。

しかし、そもそもアヒト氏がドラムを始めたきっかけは意外なものでした。「バンドのパートを決めるとき、みんながやりたい楽器を選んでいくと、ドラムって余るんですよ」と彼は振り返ります。当時中学2年生だった彼は、自宅に練習スペースがあった幸運も手伝い、「ドラムがいないなら、俺がやるよ」と自ら手を挙げました。夏休みには、家の手伝いをしてそのお駄賃として、一番安かったドラムセットを買ってもらったというエピソードは、彼の音楽への最初の情熱を物語っています。

福岡から東京へ:戸惑いと飛躍の軌跡

アヒト氏がNUMBER GIRLのメンバーとして向井秀徳氏(現ZAZEN BOYSのボーカル・ギター)から誘われたのは、彼が別のバンドでドラムを叩いている姿を見て「面白いドラムがいる」と感じたことがきっかけでした。その後、電話一本でバンドへの参加を決め、インディーズアルバムがレコード会社の目に留まり、仮契約を経て東京へと上京します。

上京当時の心境について、アヒト氏は「戻るとか戻らないは考えていなかったかもしれません。ライブをやるたびに動員がどんどん増えて行ったこともあって無我夢中で」と語ります。地元福岡では、知り合いや友人のみが観客で、インディーズCDを出しても30人か40人来れば「御の字」という状況でした。しかし、東京では「福岡にいたころと同じことをやっているつもりなのに、どんどんとライブハウスが埋まっていく」という経験に、「ちょっと不思議な気持ちもありました」と当時の戸惑いと驚きを明かしています。この飛躍は、NUMBER GIRLが持つ独自の魅力と、アヒト氏のドラムが放つ特別な輝きが、多くの聴衆に響いた証拠と言えるでしょう。

まとめ

アヒト・イナザワ氏のドラム活動中止というニュースは、多くの音楽ファンに衝撃を与えました。長年にわたり彼を苦しめてきた難病「ジストニア」との戦いは、音楽への情熱を燃やし続ける彼にとって、まさに「音楽との戦い」以上に大きな比重を占めるものであったことが、今回の単独インタビューで明らかになりました。しかし、彼がNUMBER GIRL、ZAZEN BOYSとして日本の音楽シーンに残した足跡は計り知れません。偶然から始まったドラムとの出会い、そして福岡での苦悩と東京での爆発的な飛躍――彼のキャリアは、一人のアーティストがいかに困難に立ち向かい、その才能を開花させてきたかを示すものです。アヒト氏の一日も早い回復を願い、今後の彼の新たな挑戦にも注目していきたいところです。


参考文献: