日本の右派ポピュリズム:MAGAとの比較で浮かび上がる「野心なきファシズム」とは

国際ジャーナリストのモーリー・ロバートソン氏は、『週刊プレイボーイ』の連載コラム「挑発的ニッポン革命計画」において、日本に勃興した新たな右派ポピュリズムの特徴を深く考察しています。特に注目すべきは、先の参院選で顕在化した日本独自のポピュリズムが、アメリカのMAGA(Make America Great Again)運動とは異なる「野心なきファシズム」とでも呼べる萌芽を示している点です。国政選挙の場で、かつてネット掲示板で露悪的に書き込まれていたような排外的、あるいはミソジニー的な言説が当たり前のように語られるようになった一方で、そうした主張に共鳴する人々の多くは、日常的に悪意をむき出しにしているわけではありません。むしろ「善良な人々」が、自身の中に抱える不安や不全感をうまく処理できず、その感情に共鳴している実態が浮き彫りになりました。

MAGA運動との決定的な違い:野心と共同体の不在

アメリカのMAGA運動は、トランプ大統領によって火がつけられ、宗教共同体を背景とした強固な結束や、建国以来根強く存在する反エリート感情をその基盤としています。この運動には、リーダー格となる大金持ちが存在し、信奉者向けの配信で巨額の利益を得ている人物もいます。そこには、明確な目的意識と「世の中を変えよう」とするギラギラとした野心的なエネルギーが満ち溢れています。一方で、モーリー・ロバートソン氏の分析によれば、現在の日本におけるポピュリズムには、このような野心的なエネルギーが顕著には見られません。長引く経済不安が両国に共通する背景であることは事実ですが、日本の場合、それ以上に孤立した生活や社会とのつながりの希薄化といった要因が強く影響していると指摘されています。スマートフォン画面にあふれる過激で単純なフレーズが、救いのように響いてしまうのは、まさに現代社会における断絶の表れなのかもしれません。

国際ジャーナリストのモーリー・ロバートソン氏が日本のポピュリズムを分析する姿国際ジャーナリストのモーリー・ロバートソン氏が日本のポピュリズムを分析する姿

日本のポピュリズムを育む社会的背景:孤立と自己責任論

かつて日本社会には、地域の祭りや年中行事など、自然な形で人と人とが関わる共同体的な営みが豊かに存在していました。しかし、これらの伝統的な共同体が徐々に姿を消す中で、それに代わって台頭したのは、個人の競争を前提としたサバイバル構造です。人々の関心は自己実現や経済的成功へと強く傾き、2000年代以降は、努力によって(実際には運の要素も大きかったにもかかわらず)高級車や都心のタワーマンションを手に入れた者が「勝ち組」として称賛される風潮が定着しました。この価値観は、裏を返せば「成功できなければ自己責任である」という冷徹なメッセージを内包しています。目の前に努力が報われない現実があったとしても、社会の不条理に対して声を上げるのではなく、「どうせ変わらない」「自分には関係ない」と諦めることでしか、自らの自我を守れない人々が増えていったとしても、何ら不思議ではありません。このような諦めの心理が、日本独自のポピュリズムの温床となっている可能性が指摘されます。

「推し活の集合体」としての日本型ポピュリズム

アメリカのMAGA運動が、信奉者たちの集団それ自体が強烈な共同体としての側面を持ち、「世の中をひっくり返す」ことに自ら積極的に参加しようとするのに対し、日本の右派ポピュリズムは、現状ではどこか「推し活の集合体」のような雰囲気を呈しています。これは、特定のカリスマ的リーダーへの盲目的な支持や、共感する言動への共鳴が、能動的な社会変革への参加よりも優位に立っている状態を示唆しています。インターネット上に溢れる排外的・差別的な言葉は、誰かを傷つけたいという直接的な加害衝動からではなく、「満たされなさ」や「認められなさ」といった根源的な感情から生まれている可能性が高いと分析されています。

真に必要な「救い」とは:セーフティネットと構造改革

もし、排外的・差別的な言動の根源が「満たされなさ」や「認められなさ」にあるのだとすれば、社会として本当に必要とされるのは、孤独や断絶を埋め直すための強固なセーフティネットの構築です。そして、安心して自身の弱さを預け、助けを求めることができる「回路」を社会の中に確立することこそが急務であると言えます。また、経済的な不安が人々を深く蝕んでいるのであれば、批判の矛先を向けるべき相手は、外国人や性的少数者といったマイノリティではなく、資本家に有利な税制や、場合によっては資本主義そのものの仕組みであるはずです。マイノリティから何かを奪い取ったところで、そこから新たな富が生まれることはなく、誰かが本質的に得をするわけでもありません。「異質なものを排除できさえすれば、たとえますます貧しくなっても構わない」という思考に陥るならば、建設的な議論の余地はもはや存在しないでしょう。


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