1945年8月6日、軍事拠点としての役割を担っていた広島市に投下された原子爆弾は、瞬く間に街を壊滅状態に陥れました。約14万人もの尊い命が奪われたとされるその日、市民の生活を支えていた広島電鉄もまた、51カ所の建物中50カ所が倒壊し、従業員の3割以上が死傷するという壊滅的な打撃を受けました。しかし、驚くべきことに、わずかな区間ではあったものの、被爆当日中に電車が復旧し、無賃で市民を乗せて走り出したのです。焦土と化した街を走る電車の姿は、多くの広島市民に「もう電車が動くのか!」と大きな衝撃と希望を与えました。同様に原爆の被害を受けた長崎電気軌道が復旧に3ヶ月を要したのに対し、なぜ広島電鉄は被爆当日から運行を再開できたのでしょうか。この奇跡的な復旧の背景には何があったのか、当時の様子を辿ります。
1945年の被爆を乗り越え、現在も広島の街を走り続ける広島電鉄「652号」被爆電車
原爆が炸裂した朝、広島の街と路面電車に起きたこと
原爆が投下された1945年8月6日の午前8時15分は、まさに通勤・通学ラッシュの真っ只中でした。走行可能な広島電鉄の車両のほとんどが、市内の路線を運行していた時間帯です。当時、路面電車の車体は木造が多く、爆心地近くを走っていた電車は、乗客・乗員もろとも一瞬で焼き尽くされました。
関係者の証言によると、爆心地から1キロメートル圏内を走行していた21両の電車は、おそらく超満員状態。合計2000人以上が乗車していたと推定され、そのうち生き残ったのはわずか数十名に過ぎなかったとされます。運転士はブレーキ操作を行う間もなく瞬時に焼け焦げ、奇跡的に飛び降りて助かった乗客が振り返ると、電車は燃え盛りながらも惰性でレールの上を走り続けていたといいます。路面電車の被害は甚大であり、その惨状は想像を絶するものでした。
絶望の中からの復旧:希望の光となった路面電車
広島電鉄は甚大な被害を受けながらも、その日のうちに一部区間の運行を再開しました。この驚くべき早期復旧は、当時の広島市民にとって、絶望的な状況の中で一筋の希望の光となったのです。しかし、いかにして壊滅状態からこれほどの迅速な復旧が可能だったのでしょうか。
この問いの答えを探るため、当時の広島電鉄電気課長を務めていた松浦明孝氏の手記、そしてその手記をまとめた書籍『だから路面電車は生き返った』(南々社)の著者である元運転士の中田裕一さんへの取材、さらには広島電鉄の社史といった貴重な資料を基に、当時の状況を詳細に分析します。本稿は全2回にわたる連載の第1回目であり、次回の記事では、この奇跡的な早期復旧を可能にした具体的な要因と、それを支えた人々の行動に迫ります。
参考文献
- 松浦明孝 手記(広島電鉄元電気課長)
- 中田裕一 著『だから路面電車は生き返った』(南々社)
- 広島電鉄 社史