作家で元教員の乙武洋匡氏(49)が、SNSを通じて社会に波紋を広げている広陵高校野球部の暴力事案について、自身の見解を深く語った。第107回全国高校野球選手権大会に出場中の広陵高校で起きたこの問題では、インターネット上で出場継続への批判が相次ぎ、真偽不明ながらも加害者とされる選手の個人情報(実名や顔写真)が拡散される事態に至っている。乙武氏は、音声プラットフォーム「Voicy」での発信を通じ、こうした状況に対する懸念、学校側の対応への疑問、そして高校スポーツにおける「連帯責任」という概念の妥当性、さらには部活動が持つべき「教育活動」としての本質について、多角的な視点から考察を提示した。
学校側の対応への疑問と生徒保護の欠如
教員経験も持つ作家の乙武洋匡氏は、広陵高校野球部における暴力事案に対する学校側の対応について、その「本質」が生徒のことをどれだけ本気で考えていたかに尽きるとの見解を示した。同氏は、加害者とされる生徒がその実名や顔写真と共に全国に晒される現状は、学校が「あらかじめ予見できたはず」の事態であったと厳しく指摘。こうした状況下での全国高校野球選手権大会への「強行出場」という判断は、結果として「そういう子たちを守れない、守らない」というメッセージに繋がるのではないかと懸念を表明した。乙武氏は、学校の決断が本当に子どもたちの未来を考慮した結果だったのか、それとも学校の「出場回数」や「学校の利益」を優先させたのではないかと疑問を投げかけた。その上で、「今、こうなってみたら、学校にとっても不利益が大きかったのではないか」と、SNSによる情報拡散を予測しきれていなかった可能性についても言及し、判断の甘さを問うた。
乙武洋匡氏が広陵高校野球部の暴力事案に関する自身の見解を述べる様子
「連帯責任」という考え方への異議
一方で、乙武氏は長らく日本の部活動に根強く存在する「連帯責任」という考え方に対して、「違う視点を持っている」と明言した。高校野球に限らず、一部の部員が問題行動を起こした際に、部全体が活動停止や出場辞退を強いられる現状に対し、その妥当性を根本から問い直した。乙武氏は、暴行を止めようとした選手や、その場にいなかったために止められなかったが、もし居合わせれば止めていたであろう生徒もいたかもしれないと指摘。問題を起こした生徒一人の行動のために、他の全ての部員が「一緒くたにされて、部活動全部停止とか、野球部は出場辞退っていう連帯責任を背負わされること」は、「ちょっと軍隊的だな」と自身の違和感を表明。問題を起こした生徒のみを処分し、他の無関係な生徒たちが野球に打ち込み、予選を勝ち上がったのであれば、「それは出場してもいいんじゃないの」という見方も社会に存在すべきだと、自身の明確な意見を述べた。
部活動の「教育活動」としての本質
さらに乙武氏は、高校スポーツ、特に部活動の根源的なあり方について深く掘り下げた。「そもそも、部活動というのは教育活動の一環であると、ここをちょっと忘れてほしくない」と強く指摘し、その「教育的側面」の重要性を強調した。しかし現状、教育活動であるべき高校野球が「ビジネスコンテンツになりすぎている」と警鐘を鳴らし、「本当に子どもたちのための活動になっているのか」という疑問を投げかけた。乙武氏は、メディア側、スポンサー側、学校側といった「大人たちの利益のために、高校生たちのがんばりというものが消費されてしまっている」という強い懸念を表明。純粋な努力が大人たちの商業的思惑に利用されている可能性を指摘し、生徒の健全な育成を最優先する「教育の場」としての役割への回帰を強く促した。
乙武洋匡氏の一連の指摘は、広陵高校の暴力事案を機に、現代の高校スポーツが抱える構造的な課題を浮き彫りにした。生徒保護の重要性、「連帯責任」という慣習の再考、そして部活動が教育の一環であるという原点への回帰。これらは、大人たちが高校生のがんばりをいかに扱い、真に彼らの成長に貢献できるかを問う、重要な議論のきっかけとなる。高校野球が単なるビジネスコンテンツとして消費されるのではなく、生徒が安心して活動に打ち込める「教育の場」として機能するためには、社会全体での意識改革が強く求められている。
参考資料
- 乙武洋匡氏、広陵高校野球部の暴力事案を巡り苦言「生徒を守れない」「連帯責任は軍隊的」
*記事内で言及された乙武洋匡氏のコメントと背景情報はこちらから参照いただけます。