チリ激動の半世紀:社会主義政権から軍事独裁へ、日本が知らなかった真実

半世紀以上前、南米チリは世界史において特異な政治実験の舞台となりました。1970年、世界で初めて民主的自由選挙によって社会主義政権が誕生。医師でありマルクス主義者の政治家、サルバトール・アジェンデが大統領に就任したのです。しかし、その急進的な政策は国内に混乱をもたらし、わずか3年後には軍事クーデターによって終焉を迎えます。このクーデターを主導したのがアウグスト・ピノチェト将軍でした。

本稿では、アジェンデ政権の誕生からピノチェト軍事独裁政権への移行、そして当時の日本を含む国際社会の反応について、歴史的経緯と経済的側面から深く掘り下げます。

チリにおける社会主義政権の誕生と経済的混乱

サルバトール・アジェンデ政権は、鉱山、大企業、金融機関、運輸業といった基幹産業の急進的な国有化を推し進めました。農業分野では大規模農園の土地を収用し、外国企業の接収も断行。一方で、最低賃金の引き上げや公務員・国有企業従業員の賃上げを実施し、社会福祉予算を倍増させるなど、国民生活の向上を目指す政策を次々と打ち出しました。

しかし、これらの急激な社会主義経済導入は、経済に深刻な影響を与えました。生産活動の停滞、生活必需品の深刻な不足、ハイパーインフレーションの激化、失業率の急上昇がチリ経済を蝕みました。国家財政は破綻し、対外債務不履行を宣言するに至り、チリ国内には広範な社会不安が蔓延しました。

ピノチェト軍事独裁政権の成立と「チリの奇跡」

経済的、社会的な混乱が深まる中、1973年、アメリカ合衆国の支援を受けたアウグスト・ピノチェト将軍(チリでは「ピノシェト」と発音されることが多い)が軍事クーデターを決行しました。アジェンデ大統領は反乱軍に囲まれた大統領府で自ら命を絶ったとされています。

ピノチェト将軍が権力を掌握した後、政権は経済政策を劇的に転換します。新自由主義経済を採用し、大規模な外資導入と国営企業の民営化を推進しました。この経済改革を主導したのは、ノーベル経済学賞受賞者であるミルトン・フリードマンが率いるシカゴ大学から招聘された多数の経済専門家「シカゴ・ボーイズ」でした。彼らの政策により、チリ経済は安定を取り戻し、社会不安は収束へと向かいました。フリードマンはこの経済的成功を「チリの奇跡」と称賛したと言われています。

チリのサルバトール・アジェンデ大統領(左)とアウグスト・ピノチェト将軍(右)が共に歩く姿。社会主義政権と軍事独裁の転換期を象徴する一枚。チリのサルバトール・アジェンデ大統領(左)とアウグスト・ピノチェト将軍(右)が共に歩く姿。社会主義政権と軍事独裁の転換期を象徴する一枚。

1970年代の日本と国際社会のチリ報道の偏り

1970年代、アジェンデ政権の成立からピノチェト軍事独裁政権への移行期は、筆者が高校・大学時代を過ごした時期と重なります。当時の日本の新聞やテレビ、そして知識人や専門家の論評は、アジェンデ大統領を「世界の新思潮を代表する英雄」として高く評価する一方で、ピノチェト将軍を「米国帝国主義と米国大資本の傀儡」として、「反動的で非人道的な独裁者」と酷評する傾向が顕著でした。

当時の報道では、アジェンデ政権下での経済的失敗や、その後のピノチェト政権がもたらした経済回復について指摘するものはほとんど記憶にありません。代わりに、ピノチェト政権下で左派活動家への人権侵害や、旧アジェンデ政権支持者への弾圧が強く報じられていました。

この時代、「民主主義、労働者農民大衆が絶対正義であり、民主主義が進化した理想の政治体制が社会主義である。他方で資本家や大企業は悪であり、資本主義が生み出す貧富の格差は階級闘争によって克服され、最終的に社会主義国家が誕生する」というマルクス史観が、マスコミや評論家といった「進歩的知識人」の間で広く共有されていたようです。チリを訪れるまで、筆者自身のチリに対する理解も、当時の日本の報道から形成されたものでした。

まとめ

チリの歴史は、民主的な社会主義政権が経済的混乱の末に軍事独裁政権へと移行し、経済政策の転換によって安定を取り戻すという、複雑かつ劇的な過程を辿りました。この一連の出来事は、政治イデオロギーと経済の実態、そして情報伝達のあり方について深く考察する機会を提供します。

当時の国際社会、特に日本におけるチリ報道は、特定のイデオロギー的視点に大きく影響されていた可能性が指摘されます。歴史を多角的に検証し、隠された側面にも光を当てることで、現代の国際政治経済の理解を深めることができるでしょう。

参考文献