世界最悪の航空機事故となった日航機墜落事故は、1985年8月12日、群馬県上野村の御巣鷹の尾根で発生しました。この悲劇で、田淵陽子さん(当時24)、満さん(19)、純子さん(14)の三姉妹を一度に失った田淵夫妻は、深い悲しみを抱きながら生きてきました。母の輝子さんは娘たちの死を否定し、長年アルコールに依存する錯乱状態に陥りましたが、夫の親吾さんは常に黙って妻を支え、守り抜きました。その親吾さんは今年5月、96歳で亡くなりました。
日航機墜落事故で娘を失い、妻を支え続けた田淵親吾さん(2023年5月撮影)
輝子さんは親吾さんの葬儀では気丈に振る舞っていましたが、出棺の際には声を上げて泣きました。事故から40年、夫婦は娘たちへの変わらぬ愛情と悲しみを抱きながら、互いに寄り添いながら生きてきたのです。
御巣鷹の尾根、悲願の登山:娘たちを冷やす水
日航機墜落事故の犠牲となった田淵家三姉妹、事故3日前の笑顔(左から田淵陽子さん、純子さん、満さん)
2003年8月12日、日航機墜落事故から18年、当時74歳だった親吾さんと69歳の輝子さん夫妻は、群馬県上野村の御巣鷹の尾根にある娘たちの墓標を目指し、杖を頼りに山道を一歩一歩進んでいました。高齢ながらも、夫妻は満タンの2リットルペットボトル計5本を背負っていました。
日航機墜落事故から長年悲しみを抱え生きてきた田淵輝子さん、親吾さん夫妻(2004年撮影)
登山口から約2時間後、墓標に到着した夫妻は、事故機の残骸から見つかり陶板に加工された三姉妹の写真(事故3日前)をじっと見つめ、苦労して運んできた水をかけ始めました。「熱かったね、熱かったからね。姉ちゃん、みっちゃん、純ちゃん、熱かったね。ごめんね、ごめんね」輝子さんは「あの子たちは焼け焦げた状態で見つかり、生きたまま火に包まれ苦しんだのではないか。助けてあげられなかったから、せめて水だけでもかけたい」と涙ながらに語り、墓標を優しく撫で水をかけ続けました。
日航機墜落事故で娘を失い、墓標に水をかけ続ける田淵輝子さん(2004年撮影)
運命の日:家族の絆とJAL123便
日航機墜落事故前日、ディズニーランドで楽しむ陽子さんと純子さん
1985年8月12日午後6時56分、日航機123便が墜落したその時、親吾さん(当時56)は自身が経営する大阪市内の石鹸工場で働き、輝子さん(当時51)は旅行から帰宅するはずの娘たちの夕食の準備に追われていました。三姉妹は非常に仲が良く、長女の陽子さん(当時24)は毎年夏のボーナスで妹たち(満さん当時19、純子さん当時14)を旅行に連れていくのが恒例でした。この旅行は、父の親吾さんの勧めでもありました。
日航機墜落事故から40年。田淵夫妻は、娘たちへの尽きることのない愛情と深い悲しみを抱き続けながらも、互いに支え合い生きてきました。親吾さんは、苦悩する妻を黙って見守り続け、その愛情と強さを示し、今年96歳で静かに旅立ちました。輝子さんの悲しみはこれからも続くでしょう。しかし、夫妻が紡いだ40年間の絆は、遺族の計り知れない苦痛と、それでも前を向く深い人間の愛情を静かに物語っています。この事故の記憶と遺族の悲痛な思いを風化させることなく、未来へ語り継ぐことの重要性を改めて感じさせられます。
[出典] Yahoo!ニュース(JNN)