DVに怯えながら育った少年、桑原征平さんは、父の死後、母の遺品の中から一冊の古い本を見つけました。その本には「陣中日記」と記され、戦場での想像を絶する凄惨な体験が生々しく綴られていたのです。少年時代、「最低の父」と憎んでいた征平さんは、この日記を通して、戦争によって心が変わってしまった父・桑原栄の知られざる内面に初めて触れることになります。これは、戦後を生き抜いた日本兵とその家族が抱え込んだ沈黙の物語であり、見えない戦争の心の傷、すなわち戦後トラウマが次世代に与えた影響を浮き彫りにする実話です。
家族を苦しめた父のDVと母の沈黙
征平さんが小学校5年生の時の出来事は、彼の心に深く刻まれています。正月と盆以外は休みなく働く母に、父は「今日は何が何でも早めに帰ってこい」と命じました。母が急いで夕食を用意すると、父の「女」が家にやって来ました。父とその女性が食事をするのを、母と征平さんはただ黙って横で見ていたといいます。酒を飲んだ父は母に布団を敷くよう命令し、その後「お前、いまから征平連れて2時間、風呂行ってこい。時間前に帰ってきたら、承知せえへんぞ」と告げました。
母と二人で風呂から出た後も、まだ1時間もの時間が残されていました。家に帰れば父に殴られることを恐れ、二人は家の近くの製材所の材木の上に並んで腰掛け、寒空の下でじっと待ち続けました。その時、征平さんは思わず母に問いかけました。「お母ちゃん、なんで別れへんの。僕ら兄弟、みんなお母ちゃんについていく。あんな怖い怖いお父ちゃんと、なんで一緒にいんの」。しかし、母の答えはこうでした。「お父ちゃんは必ず変わらはる。戦争行く前の優しいお父ちゃんに戻らはる。せやから、せやから、それまで辛抱したげような」。母は、戦前の優しい父が戻ってくることを一途に信じていたのです。
戦争が残した心の傷を象徴するイメージ
戦争が変えた「優しい警察官」の心
父・桑原栄は1907年、広島県で生まれました。10代で京都に移り住み、警察官となります。彼が勤務する派出所の前に住んでいたのが、後に妻となるフミさんでした。フミさんは小児麻痺で手足が不自由でしたが、栄は「姿形はどうでもええ、優しい人柄にほれたんです」と祖母に伝え、結婚を懇願したといいます。母フミは、そんな栄に深く恩義を感じていたと同時に、当時の父は「優しい優しい人やった」と常に語っていました。
しかし、その優しかった栄の人生は、戦争によって一変します。1938年、彼は陸軍兵士として中国へ出征。1年後、傷病兵として帰国しました。征平さんが生まれたのはその4年半後、空襲警報が鳴り響く中、自宅に掘られた2畳の防空壕で母が産気づき、父が取り上げたといいます。征平という名前の「征」は、出征兵の「征」に由来しています。復員後、栄は警察に復職しますが、人が変わったかのように荒くれ者になっていました。まだ終戦前のある日、巡査だった父は外国人たちの賭博現場に踏み込み、逃げる人々を河原まで追いかけ、持っていたサーベルで一人の片腕を背後から切り落としたという事件を起こします。この件は新聞沙汰となり、彼は山奥へ左遷され、ついには警察を辞職することになりました。
これらの出来事は征平さんの生まれる前のことですが、父は酒を飲むたびに「悪い奴を斬ってやった」と自慢していたため、征平さんはその話をよく覚えていました。警察を辞めた後は職を転々としましたが、どれも長続きしませんでした。不自由な体を抱える母が働き、一家の家計を支える日々が続きました。
戦後日本の深い傷と家族の理解
桑原征平さんが父の「陣中日記」から読み解いたのは、単なる過去の記録ではありませんでした。それは、戦争が一個人にもたらす深い心の傷と、それが家族関係にもたらす悲劇的な連鎖でした。かつて優しかった警察官が、戦場で経験した凄惨な出来事によって人格を歪ませ、家族にDVを振るう「最低の父」へと変貌してしまった現実。征平さんは日記を通して、憎しみの対象でしかなかった父の行動の根源に、誰にも打ち明けられなかった戦後トラウマがあったことを理解します。この物語は、表には出にくい日本兵たちの心の傷とその家族への影響を伝え、過去の歴史と向き合い、理解することの重要性を改めて私たちに問いかけています。
参考文献
- 大久保真紀・後藤遼太『ルポ 戦争トラウマ 日本兵たちの心の傷にいま向き合う』(朝日新書)





