戦後80年、記憶の継承と「男たちの戦後」が問いかけるもの

戦後80年という節目を迎える夏、「あの戦争」の記憶が風化し、体験者たちの声が次第に聞かれなくなる時代が訪れています。作家の北原みのり氏は、こうした時代の潮流の中で、私たちがこれまで深く向き合ってこなかった「男たちの戦後」という側面、特に戦争における加害の記憶とその語られ方に焦点を当て、その複雑な真実を問いかけます。この記事では、個人的な記憶の継承と、社会全体が共有すべき歴史認識のあり方について考察します。

祖母が語った、10代の目に映る戦争の風景

北原氏が唯一、戦争の記憶を語ってくれたという祖母は、まだ10代だった頃の体験を鮮明に覚えていました。東京大空襲の夜、空は人生で見たことのないほど明るく、思わず立ち止まって見上げていたこと。当時の隣組の男たちから感じた威圧感が、後に遭遇する米兵よりも恐ろしかったこと。そして、上野の山に積み上げられた遺体の山が、まるで「丸太」のように手足を伸ばされて積まれていたという衝撃的な光景。祖母が繰り返し語るこれらの戦争の景色は、北原氏の心に色鮮やかな映像として深く刻み込まれています。個人の体験を通して伝えられる戦争の悲惨さは、教科書では学びきれない生々しい記憶として、世代を超えて継承されるべき重みを持っています。

原爆犠牲者を追悼する元安川の灯籠流し、戦後80年を象徴する光景原爆犠牲者を追悼する元安川の灯籠流し、戦後80年を象徴する光景

家族には語られなかった「男たちの戦後」の記憶

祖母の戦争体験談の中でも、北原氏に最も衝撃を与えたのは、「男たちの戦後」に関する話でした。敗戦から約20年後、40代で旅館を経営していた祖母は、宴会の席で多くの男性たちと接する機会がありました。その中には、戦友会と称して集まる元兵士たちも少なくなかったといいます。酒を酌み交わす彼らの会話は、決して家族には語れないような内容ばかりでした。どのようにして人を殺したか、どのようにして中国人を殺したか。そうした加害の記憶が、芸者たちが酌をする座敷で、赤裸々に語られていたというのです。この事実は、戦争の記憶が公の場や家庭内で一様に語られるわけではなく、隠されたり、特定の文脈でしか表出しない複雑な側面があることを示唆しています。

「笑い」に込められた、記憶の深層

北原氏が祖母に、「その男の人たちは、どんな調子でその話をしていたの?」と尋ねると、祖母は即座に答えました。「浴びるほど飲んで、笑っていたよ」。この「笑い」という言葉は、北原氏に深い衝撃を与え、それ以上の言葉を失わせました。その笑いは、恐怖の裏返しだったのか、忘れたいのに忘れられない苦痛の昇華だったのか、あるいは別の何かが込められていたのか。その意味を問うことは、単に個人の心理に留まらず、戦争という極限状況が人間に与えた深い傷跡と、それに対する多様な対処法、そして社会が向き合ってこなかった加害の側面を浮き彫りにします。北原氏の耳の奥には、聞くはずもない「男たちの笑い」の感触が、記憶として拭い去れないまま残っているといいます。

戦後80年を迎え、私たちが向き合うべき「語られざる記憶」

戦後80年という区切りは、私たちに改めて戦争の記憶、特に語られにくい加害の側面に向き合うことの重要性を問いかけます。祖母の証言を通して北原氏が感じた「男たちの笑い」は、戦争がもたらした複雑な心理と、それが社会の中でどのように処理されてきたかを示唆する象徴的なものです。戦争体験者が少なくなる今だからこそ、個人的な記憶の継承だけでなく、語られなかった歴史や、目を背けてきた加害の歴史にも光を当て、多角的な視点から戦争を捉え直す努力が求められています。これは、未来の世代に平和な社会を引き継ぐための、私たち現代に生きる者の責任です。

参考文献