夏の強い日差しが照りつけるグラウンドで、数十人の子どもたちがユニホーム姿で汗を流す。その輪の中心には、85歳とは思えないほどエネルギッシュに動き回り、しわがれた声で激励を続ける一人の女性の姿があった。「誰が見てると思うてるん? おばちゃんやろ!! あなたがたがどんだけ一生懸命やってるかを!」。大阪府吹田市で半世紀にわたり学童野球チーム「山田西リトルウルフ」を率いる棚原安子さんは、子どもたちに「一球でもいいから、懸命に練習している姿を見せろ」と情熱的に語りかける。彼女の指導は単なる野球技術の向上に留まらず、子どもたちが社会で自立して生きる力を育むことに焦点を当てている。
85歳を支える驚異の活力:「サプリより子どもたち」
棚原安子さんのその衰えを知らない活力は、周囲の人々を驚かせ続けている。85歳という高齢にもかかわらず、毎週末グラウンドに立ち、ノックバットを振り続け、子どもたちに直接指導を行うその姿はまさに圧巻だ。まるで病気とは無縁であるかのような彼女の健康状態には、あるサプリメント会社がコマーシャルのオファーをしてきたほどだという。しかし、棚原さんはそれをきっぱりと断った。「私はそんなの全然、飲んできてないし。『いまさら、サプリで元気や、なんて言えない』って。私の元気さは、ウルフの子らのおかげなんです」と語る彼女の言葉には、子どもたちへの深い愛情と、彼らから得られる喜びが活力の源であるという強い信念が滲み出ている。
85歳とは思えないエネルギッシュさでノックバットを振る学童野球チーム「山田西リトルウルフ」の棚原安子さん
権威を嫌う「おばちゃん」としての哲学
チームの創設者であり、半世紀にわたり指導の第一線に立ち続ける棚原さんだが、彼女が「おばちゃん」と呼ばれることにこだわり続けるのは、深い哲学に基づいている。チームの公式ホームページには夫の長一さんが「会長」と記され、他にも名誉顧問、代表、審判員、各学年担当の監督・コーチといった様々な肩書が並ぶ中、棚原さんの肩書はただ一つ「おばちゃん」だ。彼女は「偉そうな肩書付けられるの、嫌いなんです。権力振りかざして子どもらを指導したら、あかんと思うから」と語る。
大人と子どもとの関係は、人生経験の差こそあれ、常に「人対人」であり、対等であるべきだという信念を持つ。権力的な立場からではなく、一人の人間として子どもたちと向き合い、自らの経験を語り聞かせることで、自主性を育む指導を実践しているのだ。この「おばちゃん」という親しみやすい呼称は、子どもたちとの間に信頼と対等な関係を築く上で、彼女にとって不可欠な役割を果たしている。
プロ育成ではなく「社会で生き抜く力」を育む
山田西リトルウルフは、野球人気の高い大阪においても「マンモスチーム」として知られ、これまでに1,500人近い子どもたちが巣立っていった。その中には、プロ野球オリックスで活躍し、昨シーズン限りで現役を退いたT-岡田選手のような著名な卒業生もいる。しかし、棚原さんは「野球は難しい。そんだけの数の子がおっても、プロまでいってんのは岡田、1人だけです」と豪快に笑う。
彼女の指導の第一義は、決して野球技術の向上や甲子園、プロを目指す選手の育成ではない。「世の中に出てからも働ける子を育てたい、社会で生きていける力を身につけさせてやりたい。目指してんのは、それだけなんです」と断言する。棚原さんの視点は、子どもたちが将来、どのような道を歩むとしても、自らの足でしっかりと立ち、困難を乗り越え、社会の一員として貢献できる人間になることにある。野球はそのための手段であり、人間形成の場と捉えているのだ。
「今日から“ペット”生活は終わりにせなあかんで」
棚原さんが山田西リトルウルフを立ち上げた当初から抱いていたのは、現代の子育てに対する深い懸念だった。「子どものお母さんたちのありさまを見ていたら、ほんと心配だったんです。若いお母さんたち、まるでペットをかわいがるかのごとく、なんでもかんでも手を出して、過保護に子どもを甘やかして。自分のことを当たり前にできない、そんな子どもばっかりでした」と彼女は当時を振り返る。
そのため、棚原さんの指導は厳格だ。グラウンドでの道具の片付けはもちろんのこと、ユニホームの洗濯、家庭での食器の上げ下げに至るまで、全てにおいて「自分のことは自分でせい!」と団員たちに徹底させる。毎年春、入団してくる小学1年生たちを前に、彼女は決まってこう告げるのだ。「“ペット”生活は、今日からやめなあかんで──」。この言葉は、子どもたちが自立し、責任感を持ち、社会で生きていく上で必要な力を身につけるための、棚原流の強烈なメッセージとなっている。彼女の教育哲学は、子どもたちが過保護な環境から一歩踏み出し、自らの力で人生を切り開いていくための基礎を築くことに他ならない。
棚原安子さんの半世紀にわたる献身と、「おばちゃん」としての揺るぎない指導哲学は、現代社会において失われがちな自立心と社会性を子どもたちに育む貴重な取り組みと言えるだろう。彼女の情熱は、これからも多くの少年野球の子どもたちに、単なる野球の技術を超えた、人生を豊かにする教訓を与え続けていくに違いない。
参考文献:
https://news.yahoo.co.jp/articles/14153d7843b577869a0379f16efc9ab13ce2634d