中国の巨大ダム計画:ヤルンツァンポ川に建設される「世紀のプロジェクト」がもたらす地政学的・環境的リスク

中国がチベット高原で世界最大級の新たな巨大ダム建設に着手したことが、衛星画像によって確認され、国際社会の注目を集めています。この計画は、以前から存在が知られていましたが、実際の工事の進捗が明らかになったことで、その潜在的な影響への懸念が強まっています。本ウェブサイトでは2022年9月に「中国の水問題」が危機的状況にあることを指摘しましたが、3年が経過した現在、その状況はむしろ悪化の一途を辿っていると言えるでしょう。中国は長年にわたり、水資源が豊富な南部から水不足の北部へ水を供給する政策を進めており、2006年に完成した三峡ダムはその象徴です。しかし、この巨大プロジェクトは環境破壊、地滑り、下流の洪水被害といった深刻な問題を抱えてきました。それにもかかわらず、中国はさらに大規模なダム建設計画を推し進め、今回はインドとの直接的な国際的緊張を高めるリスクをはらんでいます。

ヤルンツァンポ川巨大ダム:国際河川における中国の支配

中国政府は現在、チベット高原のヤルンツァンポ川上流で、史上空前の規模となる水力発電プロジェクトに着手しています。李強首相は今年7月にこの計画を「世紀のプロジェクト」と称し、国家の威信をかけた事業であることを強調しました。ヤルンツァンポ川はヒマラヤ山脈を東から西へ流れ、インド北東部ではブラマプトラ川と名を変え、さらにバングラデシュを南下してガンジス川と合流する、まさに中国、インド、バングラデシュの3カ国にとっての生命線ともいえる重要な河川です。これらの国の国民生活、農業、工業を支える基盤となっています。しかし、この水系の管理に関する国際的な包括協定は存在せず、上流を支配する中国が一方的に水流を操作できるという、いびつな状況が続いています。

建設が進む新ダムは、世界で最も深い峡谷として知られるヤルンツァンポ大峡谷のU字型の急カーブを迂回する形で、長さ480キロメートル以上、深さ約3キロメートルもの地下トンネルを掘削し、水を一気に落差の大きい地点まで導くという前例のない工法が計画されています。このプロジェクトでは合計5基のダムが建設され、その発電量は三峡ダムの実に3倍に達すると試算されています。三峡ダムはすでに約4000万世帯分の電力を供給できる巨大施設ですが、新ダムは1億世帯以上を賄う潜在能力を持つとされており、その規模の大きさがうかがえます。

中国の長江に建設された巨大な三峡ダム。大規模水力発電と水資源管理の象徴。中国の長江に建設された巨大な三峡ダム。大規模水力発電と水資源管理の象徴。

2006年に完成した三峡ダムの建設では、約130万人が強制移住させられ、長江には全長644キロメートルにも及ぶ巨大な貯水池が誕生しました。今回のヤルンツァンポ川のプロジェクトも、これと同様に膨大な数の人々の移動と、広範囲にわたる環境変化を伴うことは避けられないでしょう。周辺地域には希少な生物種が数多く生息しており、環境保護団体などはこの巨大な水力発電計画が生態系に与える影響を強く懸念しています。

エネルギー自給と経済対策、そして環境リスクの矛盾

中国は2023年時点で、エネルギー供給の約4分の1を輸入に依存しており、そのエネルギー安全保障の確立は急務となっています。特に米中対立が激化する現代において、人口の多い中国にとって、エネルギーの安定供給は国家の喫緊の課題であり、習近平指導部が進める再生可能エネルギーの拡大もその一環として位置づけられています。

また、中国経済はデフレに突入しつつあるとの見方もあり、その原因の一つに供給過剰が挙げられています。新ダム建設は、セメントや鉄筋、労働力といった余剰資源を吸収する役割も期待されており、デフレ対策の一面も兼ね備えていると言えます。この巨大プロジェクトの総工費は約1.2兆人民元(約24兆7500億円)と桁違いの規模であり、発電された電力は中国の経済中心地である広東省、香港、マカオなどへ送電される構想です。

表向き、このダム建設は習指導部の提唱する「生態文明」政策、すなわち中国版グリーン政策に沿う形で、環境に配慮した水力発電計画として推進されています。近年、環境保護に力を入れ、再生可能エネルギーを国家的産業として育成してきた中国にとって、この巨大な水力発電事業は、設定した目標と国際社会への説明の「つじつま」を合わせるためにも、どうしても貫徹しなければならないプロジェクトであると考えられます。

しかし、チベット高原は地震多発地帯であり、過去にはマグニチュード8級の大地震も発生しています。もしこの巨大ダムが地殻変動に直面した場合、活断層上に建設された三峡ダムと同様にリスクが高く、大規模な地震が発生すれば甚大な被害を引き起こす可能性があります。さらに、インドとの軍事衝突すら引き起こしかねないほどの深刻な地政学的緊張をはらんでおり、その影響は国際社会全体に及ぶことが懸念されています。

中国がヤルンツァンポ川で進める巨大ダム計画は、国内のエネルギー安全保障と経済的要請を満たすための重要戦略であると同時に、環境、地質、そして国際関係における多大なリスクを抱えています。この「世紀のプロジェクト」は、水資源の配分を巡る国際的な対立を激化させ、地域全体の安定を脅かす可能性を秘めているため、日本を含む国際社会は、この中国の動向を今後も細心の注意を払って注視していく必要があります。


参考文献