日本とインドネシアの戦後賠償:800億円を巡る「政商」久保正雄の暗躍と伊藤忠商事の裏側

1958年、日本政府はインドネシアとの間で平和条約を締結し、第二次世界大戦中の占領に対する賠償として約800億円を支払うことで合意しました。この巨額の賠償は、日本企業の生産物やサービスという形で提供される「ひもつき賠償」であったため、日本の各商社は利権獲得を巡って激しい争奪戦を繰り広げました。当時、インドネシア政府との確固たるパイプを持たなかった伊藤忠商事が、この複雑な交渉の仲介を依頼したのが、後に「政商」と呼ばれることになる久保正雄氏です。本稿では、共同通信社社会部編『沈黙のファイル 「瀬島龍三」とは何だったのか』(朝日文庫)を基に、戦後日本の知られざる賠償ビジネスの裏側と、そこに暗躍した人物たちの実像に迫ります。

「政商」久保正雄とは何者か?:伊藤忠参謀を翻弄した男

戦時中、陸軍のエリート参謀として数々の作戦立案に携わり、戦後は伊藤忠商事で辣腕を振るって同社会長にまで上り詰めた瀬島龍三氏。その右腕として多くの裏交渉に携わった部下、小林勇一氏の証言は、久保正雄氏の実像を鮮やかに描き出します。「久保のような男のことを政商と言うんだろうね」と小林氏は語ります。久保氏は自身の経営する東日貿易の株主には、自民党の大物議員である大野伴睦氏や河野一郎氏、さらには右翼の児玉誉士夫氏らが名を連ねていると公言していました。この東日貿易は、実際には自民党の裏の政治資金ルートとして機能していたとされています。

東京・銀座の外車ブローカーから身を起こした久保正雄氏は、終戦後の高級乗用車不足に乗じ、占領軍の軍人や米国人牧師の名義を借りて米国車を輸入。日本の大手企業などに高値で転売し、莫大な富を築いた立志伝中の人物です。その後、インドネシアのスカルノ大統領と親交を深めることで、巨額の賠償ビジネスに深く関与するようになります。小林氏は、久保氏が当時、東京都港区飯倉に立派な二階建て事務所を構えていたことを記憶しており、瀬島氏と久保氏との連絡役として度々その事務所を訪れたと証言しています。

インドネシア賠償問題を巡る交渉に臨む伊藤忠商事の瀬島龍三氏(中央)と関係者。当時の緊迫したビジネスシーンを捉える。インドネシア賠償問題を巡る交渉に臨む伊藤忠商事の瀬島龍三氏(中央)と関係者。当時の緊迫したビジネスシーンを捉える。

スカルノ大統領との蜜月:賠償ビジネスの深層

スカルノ政権に深く食い込んだ久保正雄氏は、ジープ納入を皮切りに、紡績工場プラント、テレビ局設備など、インドネシアへの賠償に関連する大型案件を次々と伊藤忠商事に仲介していきました。その度に、久保氏は伊藤忠商事に対して高額なコミッションを要求しました。小林氏の苦労話からも、当時の交渉がいかに困難であったかが窺えます。「久保が『瀬島さんはこれだけ払うと約束した』と言うから、社に帰って確かめると、セーさん(瀬島のこと)は『そんな約束をした覚えはない』と言う。それをまた伝えると久保は『うそをつくな』と怒りだす。えらく苦労したよ」と小林氏は振り返ります。

このコミッションは通常13パーセントに設定されており、久保氏の説明によれば、そのうち10パーセントはスカルノ大統領に渡され、残りの3パーセントが東日貿易の取り分になっていたといいます。こうした裏のコミッション費用を捻出するためには、輸送費などの経費を水増しするしかありませんでした。ジープの輸送費を2倍に水増しした際には、インドネシア国家警察の幹部から「いくらなんでも輸送費が高すぎる」と苦情が寄せられました。「車にいろんなもの(スカルノ政権へのリベート)を上乗せするから輸送費が高くなるんだ。お前らも事情は分かってるだろう」と反論したものの、最終的には輸送費は半分に削られることになりました。その分、車両本体の価格が大幅に引き上げられたことは言うまでもありません。東日貿易へのコミッションは、久保氏が指定する銀行口座に振り込まれるか、彼の要求に応じて伊藤忠商事の海外支店から送金される形が取られました。「伊藤忠のロス支店で受け取りたいと言ってきたこともあった。しかも『1000ドル札で用意してくれ』なんてね。1000ドル札はなかなか見つからないから、支店長が集めるのに苦労したと言っていたよ」と小林氏は、当時の異常な状況を証言しています。

巨額の賠償金が生んだ「利権のトライアングル」

総額800億円余りに上るインドネシアへの賠償金を巡り、伊藤忠商事、東日貿易、そしてスカルノ政権は、複雑な「利権のトライアングル」を形成していました。久保正雄氏は、この賠償ビジネスを通じて巨額の利益を手中に収め、その財力と人脈を背景に、大野伴睦氏ら有力政治家だけでなく、プロ野球巨人軍の長嶋茂雄氏や俳優の高倉健氏といった著名人の後援者としてもその名を知られるようになります。

このように、戦後の復興期における日本の国際ビジネスは、表向きの経済協力の裏で、個人の才覚と政治的コネクションが交錯する、時に不透明な利権構造を生み出していました。久保正雄氏とスカルノ大統領の間にいかにして強固なパイプが築かれたのか、そしてこの賠償ビジネスが辿った源流とは何だったのか。共同通信社の取材は、その深層を探るべくインドネシアへと向かいます。この歴史的事実が示すのは、戦後賠償が単なる経済的取引に留まらず、国家間の政治、個人の野心、そして巨額の資金が絡み合う複雑な人間ドラマであったという現実です。

参考文献

  • 共同通信社社会部編『沈黙のファイル 「瀬島龍三」とは何だったのか』朝日文庫、1999年(2025年8月25日刊の電子版記事に基づく)