80年前の12月16日未明、GHQ(連合国軍総司令部)による戦犯指名を受け、自邸で自決を遂げた近衞文麿元首相。日中戦争勃発から太平洋戦争直前まで三度にわたり首相を務め、結果的に日米開戦を回避できず多大な犠牲を生んだ戦争指導者としてその名は広く知られています。しかし、彼の長男・文隆は、陸軍二等兵として旧満州のソ連国境付近に出征し、戦後はソ連で11年間もの抑留生活を送った末、「謎の死」を遂げていたことは、あまり語られていません。この数奇な人生と近衞家が背負う戦争の記憶について、文麿の曾孫であり近衞家の次期当主である近衞忠大氏(55)が語ります。
曾祖父・文麿の自決、そして祖父・文隆の異国の地での最期
「あの戦争の時代、多くの人々が肉親を亡くす悲劇に見舞われました。近衞家でも文麿が54歳、長男・文隆も41歳という若さで亡くなり、短期間で2代の当主を続けて失います。それが遺族にとっては、埋めがたい喪失感となっていました。私の曾祖父・文麿は、GHQから戦犯指名を受け、出頭を命じられた最終期限日の未明に、自ら命を絶ちます。さらに私の祖父にあたる文隆も、戦後一度も祖国の土を踏まずロシアの地で果てました」と近衞忠大氏は語ります。
ソ連で謎の死を遂げた近衞文麿の長男・文隆の肖像
忠大氏によれば、祖父・文隆の生涯は、浅利慶太氏による劇団四季のミュージカル『異国の丘』のモデルとなり、国内外で出版された書籍の題材にもなりました。子供の頃から両親や親族が多くを語りたがらない雰囲気を感じていたものの、文隆は忠大氏にとって常に気になる存在だったと言います。
五摂家近衞家が背負う歴史と戦争の十字架
関白藤原道長を源流とする五摂家筆頭の近衞家。その次期当主であるクリエイティブ・ディレクターの近衞忠大氏は、近衞文麿の曾孫にあたります。曾祖父・文麿が日中戦争から太平洋戦争直前まで三度の首相を経験し、その指導者としての評価が今も議論される中で、近衞家は戦後80年を経てなお、戦争が残した深い影と十字架を背負い続けています。
若き日の近衞文麿と長男・文隆が笑顔で写る貴重な家族写真
前回の記事で忠大氏は、曾祖父・文麿の自決前夜までの出来事を仔細に語りましたが、今回の記事では、その11年後に「謎の死」を遂げた祖父・文隆の半生を振り返り、改めて先の大戦における当事者遺族としての切実な思いを明かしています。近衞文麿と長男・文隆のたどった運命は、日本の近代史、特に第二次世界大戦とその後の混乱が、いかに多くの家族に深い悲しみと喪失感をもたらしたかを象徴しています。彼らの物語は、歴史の重みを現代に伝え、戦争の記憶を未来へと繋ぐ貴重な証言となるでしょう。
参考文献
- 「週刊新潮」2025年8月28日号掲載記事【戦後80年 陸軍に差し出された近衞文麿「長男」の数奇な人生】より抜粋/編集