V系バンドマンの「ひめゆり学徒隊」模したコスプレが物議、ネット上で批判殺到

2025年12月10日、ビジュアル系バンド「グランギニョル」のボーカル烏-karasu-が、自身のX(旧Twitter)に「ひめゆり学徒隊」を模した衣装を着用した姿を投稿し、インターネット上で大きな波紋を呼んでいます。この投稿に対し、「不謹慎だ」「歴史を茶化している」といった批判の声が殺到し、議論が巻き起こっています。特に、沖縄での単独公演「ひめゆり学徒隊」と題されたライブの初日衣装として披露されたことで、その歴史的背景を巡る問題意識が浮き彫りになっています。

グランギニョルの沖縄公演と物議を醸した投稿

今年10月から活動を開始したV系バンド「グランギニョル」は、東京を中心にライブ活動を展開しています。12月10日から12日までの3日間、沖縄で単独公演を行う予定であり、その公演名は「ひめゆり学徒隊」と発表されていました。公演前日の12月9日、烏-karasu-はXで「1日目の衣装のテーマはひめゆり学徒隊」だと明かし、「衣装以外を着るのは初。モンペ着用します」と綴っていました。

ライブを終えた10日、烏-karasu-は「ひめゆり学徒隊」をイメージしたというライブ衣装を着用した自身の自撮り写真をXで公開しました。写真には、泥に汚れたようなメイクを顔に施し、髪を三つ編みにした烏-karasu-の姿が写っていました。白いシャツにもんぺを合わせ、救急鞄のような白いバッグを肩から掛けている様子も確認できます。この投稿が、瞬く間にネットユーザーの怒りを買うこととなります。

ビジュアル系バンドマン烏-karasu-が投稿した、ひめゆり学徒隊を模したとされるコスプレ姿。顔には泥のようなメイクが施されている。ビジュアル系バンドマン烏-karasu-が投稿した、ひめゆり学徒隊を模したとされるコスプレ姿。顔には泥のようなメイクが施されている。

ネット上で相次ぐ強い反発

烏-karasu-が公開した写真に対して、Xでは厳しい批判の声が多数寄せられました。「親戚がひめゆりの教師として命を落とした身としてホントに不快。みんな必死で逃げてたんだよ。戦火だけでなくハブや栄養失調とも闘ってたんだよ」と、個人的な経験に基づく怒りを表明するユーザーもいました。他にも、「言葉にならないくらいの怒り覚えるね」「最悪すぎるんだけど。エンタメとして消化していい題材だと思ってる?常識がないよね」といった、憤りや非難の声が後を絶ちませんでした。

「ひめゆり学徒隊」の悲劇的な歴史的背景

今回の炎上について、全国紙社会部記者はその背景にある「ひめゆり学徒隊」の悲劇的な歴史を説明しています。太平洋戦争末期の1945年3月から約3ヶ月間、沖縄では日米両軍による住民を巻き込んだ激しい地上戦が繰り広げられました。この苛烈な戦場に看護要員として動員されたのが、女子学生からなる「ひめゆり学徒隊」でした。動員された222名の生徒たちは、「ガマ」と呼ばれる壕(ごう)の中で負傷した兵士たちの世話をしました。排泄物の処理や死体埋葬といった過酷な作業に従事するだけでなく、不衛生な環境から衣服や髪にはシラミがわき、粗末な食事しか与えられなかったため、多くの生徒が青白くやせ細り、高熱で倒れることもあったといいます。

さらに悲劇的だったのは、苦しい環境を乗り越えた後、同年6月18日の夜に解散命令が出された後の出来事です。壕を出た生徒たちは、砲弾が飛び交う戦場を逃げ惑うことになり、その多くが命を落としました。中には、身を潜めていたところを突然アメリカ軍に小銃で攻撃されて亡くなった生徒もいたと伝えられています。最終的にひめゆり学徒隊の生徒は123名が犠牲となりましたが、そのうち100名以上が解散命令が出されてからわずか数日の間に命を落としました。

このような暗く悲しい歴史を持つ「ひめゆり学徒隊」をコスプレの題材にしたことに対し、多くの人々が怒りを覚えるのは当然だという指摘です。また、実際にひめゆり平和祈念資料館に展示されている生徒たちの写真にモザイク加工を施し、それをライブのイメージビジュアルに採用していることも、反感を買っている要因の一つとされています。

ボーカルの反応と今後の動向

批判が相次ぐ中、烏-karasu-はXで一般ユーザーから自身に寄せられた「最低。ひめゆり学徒隊は実際の犠牲者がいて、沖縄にとって今も重い歴史。その上で、泥や傷のメイクで笑顔の自撮りは悲惨な歴史を茶化してるみたいで気色悪い ひめゆり学徒隊の女の子達は綺麗でいたい年頃で散ったのに。こんな汚れた姿になりたくなかったろ。こいつ何?」という投稿をリポストしました。このリポストの真意は不明ですが、11日には2日目のライブ衣装写真を通常通り公開しており、現時点では元の投稿を取り消すつもりはないと見られています。

今回の騒動は、歴史的な悲劇をモチーフにした表現のあり方や、現代社会におけるエンターテイメントと社会的な配慮のバランスについて、改めて深い問いを投げかけています。特に、SNSを通じて情報が瞬時に拡散する現代において、表現の自由とそれに伴う責任の重さが浮き彫りになった事例と言えるでしょう。