「変なおじさん」「バカ殿様」-。独特のキャラクターやギャグを次々に生み出し、お笑い界のトップを走り続けた志村けんさんが、70歳で亡くなった。昭和から平成、令和と時代をまたぎ、世代を超え、日本中を笑いで包んできた伝説の「コント王」。テレビで見せる陽気な姿とは対照的に、笑いと真摯(しんし)に向き合った生涯だった。感染拡大が止まらない新型コロナウイルスの「犠牲」となり、列島は衝撃と悲しみに包まれた。
喜劇と音楽と
小学校教頭をしていた厳格な父親が支配し、「暗くて楽しくない雰囲気」の家庭で育った。そんな中、家族が笑いに包まれる時間が、人気喜劇人らが登場するテレビのお笑い番組だったという。
志村さんは平成18年、本紙の連載「話の肖像画」で、こう語っていた。
「『このオヤジが笑うのか。この人たちってすごい』と尊敬したんですよ」。コメディアンの原点となった。
チャプリンの喜劇やビートルズの音楽に親しんで育った。高校2年のとき、担任教諭に「僕はお笑いの世界に行きます」と宣言した。とはいえ、普通のお笑いでは物足りない。「音楽を絡ませた笑いをやりたい」。在学中に「ザ・ドリフターズ」のリーダー、いかりや長介さんを訪ね、付き人となった。
常に最前線
苦しい下積み時代や1年間の“脱走”を経た昭和49年、正式メンバーに昇格。「8時だョ!全員集合」で出身地を歌った「東村山音頭」をきっかけに、子供たちから絶大な支持を集めた。その後も加藤茶さんと披露した「ヒゲダンス」など人気ギャグを連発し、日本を代表するコメディアンへと成長した。
ただ、「『はやらせよう』と狙ったネタは一回もない」という。「ヒゲダンスもネタに困って、『とりあえずやってみようか』とやったらすごく受けた。毎週生放送だからすぐ反応がくるので、『受けたから来週ももう一回やってみるか』と続けた結果です」