香港の行政長官が泣いた。官僚から政府トップに上りつめた林鄭月娥(りんてい・げつが)氏(62)が涙ぐむのを見たのはしかし、1度や2度ではない。3度目である。
最初は、主催者発表で100万人規模の反林鄭デモが起きた昨年6月。メディアのインタビューに「私だって、愛する香港のために犠牲を払ってきた」と彼女は声を詰まらせながら答えた。
2度目は昨年7月。香港返還記念日の式典で中国国歌を感極まりながら歌った。そして3度目が今月23日の記者会見だ。
「医療関係者は懸命に頑張っているのに…少数の人が強制隔離の決まりを破り、市中に出て感染を広げてしまったら…」
マスクのすぐ上の瞳に涙をためて話した林鄭氏。その写真記事に、民主派寄りの香港紙、蘋果日報が付けた見出しは「ワニの涙」だった。ワニは獲物を食べるとき、まるで獲物の死を哀れむかのように涙を流すとされる。つまり「偽りの涙」のことだ。
ただ、香港でも新型コロナウイルスの感染者が急増中である。林鄭氏にのしかかるプレッシャーは相当なものだろう。孤軍奮闘する医療関係者の姿と自分をだぶらせたか。
「だめだめ、涙にだまされちゃいけない!」
目を覚ませとばかりに、香港人の友人が私に言い聞かせるのは、林鄭氏が涙の裏で「民主派勢力の弾圧を強めている」ということだ。
26日には、香港島・中西区の区議会議長を務める民主党議員が、扇動を意図した疑いで逮捕された。デモ鎮圧の際に暴力を働いたとみられる警官の個人情報を、フェイスブックに転載したことなどが問題視された。
政府や警察を激しく批判する民主派勢力は昨年11月、区議会選挙で圧勝した。が、今年に入って逮捕された民主派区議は15人に上る。
その中に、知人がいた。九竜半島・深水●(=土へんに歩の「、」を取る)(しんすいほ)区の●錦豪(しょう・きんごう)区議(30)。以前は、売れない俳優だった。
初めて会ったのは区議会選の直前。選挙区で待ち合わせをすると、ジャージー姿で現れた。昼近くなのに、まだ街頭に立っていなかった。「スタッフが寝坊しちゃって…」と頭をかいた。
取材では、「日本の芸能界に興味があるんだ。日本に移住しようかとも考えている」と言い出す始末。そんな彼が“民主派旋風”に乗り、わずか10票差で激戦を制した。
区議に当選してから再び選挙区で会った。顔つきが変わっていた。取材中、彼の携帯電話が鳴った。近くの住民からだった。
『消防車が何台も来た。私の団地で火災が起きたかもしれない。確かめてほしい-』
●氏は「中座しなければならなくなった」と丁重にわびた。驚いたのは、きびすを返した後の彼の行動である。走ったのだ。しかも、子供が運動会で走るように全速力で。「“地位が人をつくる”とはこういうことか」と思ったものだ。
その●氏が1月1日の反政府デモで逮捕された。「警察にデモを一方的に打ち切られ、その直後、不法集会に参加した容疑で捕まったのです。不当逮捕です!」と憤っていた。
今月29日からは、新型コロナの感染拡大を防ぐためとして、公共の場で5人以上集まることが禁止された。今後、デモや抗議活動も許可されない可能性がある。
ウイルスに市民たちの耳目が集まる中、9月に予定される立法会選挙を前に、政府の締め付けが強まっているのは確かだ。行政長官がワニの涙を流したかは別にして。(副編集長)