【朝鮮戦争70年】金日成勝算「2週間で全土を制圧」

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【朝鮮戦争70年】金日成勝算「2週間で全土を制圧」

 北朝鮮・開城(ケソン)の南北共同連絡事務所が爆破されるなど、2018年以降の対話路線が暗礁に乗り上げ、にわかに緊張が高まる韓国と北朝鮮。両国の分断体制を決定づけた朝鮮戦争は25日、開戦から70年を迎えた。民族統一を目指す朝鮮半島の動きはどのようにして大国を巻き込み、膨大な被害を生む泥沼の戦争と化したのか。そして、現在の朝鮮半島政治にどんな影響を与えているのだろか。(外信部 時吉達也、ソウル 桜井紀雄)

行き詰まる米ソ主導の統治

■開戦までの経過

 第二次世界大戦終戦直前の1945年8月。朝鮮半島を米ソで分割し、日本軍の武装解除を分担するための「北緯38度線」での線引きは、米陸軍省内のわずか30分の議論で定められたという。半島をちょうど二分し、首都ソウルを南側に組み入れられるという単純な理由だった。

 分割はあくまで一時的なものであり、米英ソは同12月、5年以内の信託統治を経て朝鮮独立を認めるモスクワ協定に合意した。しかし、協定に沿って開催された米ソの協議は、自国に友好的な臨時政府の樹立を狙う双方の意見が衝突し、間もなく無期休会となった。

 米ソ主導の統治が行き詰まるなか、各占領地域で影響力拡大を図る両国の明暗が分かれる。安全保障の一環として朝鮮を重視するソ連が積極的な経済支援を進める一方、政策が定まらないまま南朝鮮入りした米国は、議会が復興資金支出に難色を示し、朝鮮人の独立運動にも苦慮した。

 負担を軽減すべく、米国は設立間もない国際連合に朝鮮問題を付託。47年11月、国連監視の下、南北両地域で選挙を実施すると決まった。だが、北朝鮮への国連代表の立ち入りをソ連が拒み、結局、選挙は南朝鮮のみで実施された。

 48年8月、李承晩(イ・スンマン)を初代大統領とする大韓民国が、国連に従った半島唯一の合法政府として独立を宣言。北朝鮮は対抗して翌月、朝鮮民主主義人民共和国樹立を宣言し、互いに“分断国家”の一歩を踏み出した。

 どちらも民族統一を模索する中、北朝鮮を率いる金日成(キム・イルソン)は49年以降、共産主義陣営を主導するソ連に、韓国侵攻を繰り返し打診する。「2週間、長くとも2カ月以内に全土を制圧できる」。鉱物資源が豊富で、日本統治時代に発電所が建設された北朝鮮は国力・軍事力で韓国を圧倒していた。

 しかし、ソ連の指導者、スターリンは認めなかった。49年8月に2番目の核保有国となり米国との緊張が高まる中、軍事行動は米ソ全面戦争につながりかねないとの懸念があった。国共内戦に勝利したばかりの中国・毛沢東も同様に、台湾攻略など内政の課題を抱え、支援に消極的だった。

 50年に入り、情勢が動き出す。米国務長官アチソンは、西太平洋の防衛圏からの韓国除外を表明。米国不介入の観測が高まる中、スターリンはモスクワを訪問した金日成に対し、ソ連でなく中国に支援を要請するよう念押しした上で作戦に“ゴーサイン”を出した。

ソウル陥落、国連軍反撃へ

■北の侵攻から始まった

 6月25日午前4時40分。38度線に集結した北朝鮮軍は、一斉に攻撃を開始した。韓国側の侵攻に対する「反撃」だとする金日成の声明に従って軍は進撃、28日には李承晩が脱出した後のソウルを陥落させた。

 「韓国軍は反撃の能力を全く持たず、さらなる突破の重大な危険がある」。東京から駆け付けた総司令官、マッカーサーの現地報告を受け、米大統領トルーマンは戦前の方針を撤回、参戦を決めた。国連安全保障理事会もマッカーサーを最高司令官とする国連軍の派兵を追認し、その主体は米軍となった。

 国連軍の反撃開始後も北朝鮮の勢いは止まらず韓国領の9割以上を奪うなか、局面を変えたのは9月の「仁川(インチョン)上陸作戦」だった。

 国連軍は、干潟が広く船による上陸に不向きな地形を利用すれば「奇襲効果が高い」と判断。南部に兵を集中させていた北朝鮮軍の背後を突いた。10日ほどでソウルを奪還すると、10月以降は38度線を越え北上。中朝国境に迫った。

 苦境の北朝鮮に手を差し伸べるのか。米ソの衝突を避けたいスターリンは「戦争が不可避なら、今起こったほうがいい。数年後には日本軍国主義が米国の同盟国として復活する」と中国に参戦を促した。

 共産党幹部らの反対を押し切り毛沢東が派遣した義勇軍は、人海戦術で国連軍を翻弄した。ソウルを取り返す場面もあったが、51年に入ると国連軍の反撃を受け、戦線は38度線付近で膠着(こうちゃく)状態に陥った。

 51年7月に始まった休戦会談では、捕虜の扱いをめぐり交渉が難航する。翌年に大統領選を控え安易な妥協が許されない米国と、米軍を半島にとどめておくことで東欧での覇権争いを優位に進めたいソ連の思惑も交錯し、協議は長期化。各地で消耗戦が続き、被害は拡大の一途をたどった。

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