ルネッサンス型人間李健熙、サムスンと韓国社会をすべて変えた

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1995年の湖岩賞授賞式で言葉を交わす李健熙会長(右)と芸術部門受賞者のビデオアーティストのナム・ジュン・パイク。[中央フォト]
1995年の湖岩賞授賞式で言葉を交わす李健熙会長(右)と芸術部門受賞者のビデオアーティストのナム・ジュン・パイク。[中央フォト]

◇李健熙1942~2020

25日に死去した李健熙(イ・ゴンヒ)サムスン会長は「全人的ルネッサンス人」と評価される。企業家としてサムスンを世界超一流企業にしただけでなく、文化と芸術・福祉など多様な分野に大きい関心を持った。こうした関心が実際の投資と育成につながり、韓国社会全般の変化を引き出した。

◇スポーツ…平昌五輪招致に向け地球5周する海外出張強行軍

李会長は卓越した「スポーツ外交官」でもあった。彼は1996年に国際オリンピック委員会(IOC)委員に選任され国際スポーツ界で活動した。平昌(ピョンチャン)冬季五輪招致に向け2010年のバンクーバー冬季五輪から2011年の南アフリカ・ダーバンでのIOC総会まで1年半の間に170日間の海外出張スケジュールをこなした。地球を5周以上回る強行軍だった。その総会で平昌は2018年の五輪を招致した。3度の挑戦の末に成し遂げた快挙だった。

不人気種目に対する投資も惜しまなかった。サムスンは野球、サッカー、バスケットボール、バレーボールの4大プロスポーツのチームだけでなく、卓球、レスリング、バドミントン、陸上、テコンドーのチームを運営している。高校時代に選手として活動したレスリングに対する愛情も大きく、大韓レスリング協会長を1982年から1997年まで長期にわたり務めた。この期間に韓国レスリングは五輪だけで7個の金メダルを獲得し黄金期を迎えた。李会長はスポーツ発展に努めた功労で1984年に大韓民国体育勲章猛虎章、1986年に大韓民国体育勲章青竜章、1991年にIOC五輪勲章を贈られ、2017年には名誉IOC委員に選出された。IOCは李会長が死去するとすぐスイス・ローザンヌの本部に弔旗を掲げた。

2004年アテネ五輪金メダリストでIOC委員のユ・スンミン大韓卓球協会会長は、「李健熙会長は多様な種目のスポーツチームを創立して多くの支援をしただけでなく、IOC委員として活動して国の格を高めた真のスポーツ英雄。私がIOC委員として活動できた背景も李会長が韓国スポーツに残した遺産だと考える」と話した。ユ委員は「五輪のたびに選手村に直接来て激励してくれたことを思い出す。アテネで金メダルを取った後は『中国を破って金メダルを取ったのがどれだけすごいことか』として称賛してくれたりともした」と話した。

◇文化芸術…リウム美術館設立し、白南準など世界的巨匠を全面的後援

李会長は古美術愛好家であり芸術界の強力な後援者だった。サムスン文化財団は多くの文化財を保有しており、竜仁(ヨンイン)の湖岩(ホアム)美術館などを通じて公開している。2004年にソウル・漢南洞(ハンナムドン)にリウム美術館をオープンしている。夫人の洪羅喜(ホン・ラヒ)前館長が率いるリウムは大型展示と作家支援で美術界に大きく貢献したと評価される。李会長の全面的な支援を受けた作家の中には世界的なビデオアーティストのナム・ジュン・パイク(白南準、故人)もいる。1987年に李会長に会う前まで日本のソニー製品を使っていたナム・ジュン・パイクはその後サムスン電子製品を活用して作品活動を継続した。

◇保育・医療…貧民街に託児所寄贈、葬儀場での徹夜花札なくす

李会長は韓国が先進国に発展するための方策として女性人材活用と託児施設設立を力説したりもした。1987年に新羅ホテルで昼食をしながら窓の外のあばら家を見て、「あそこに暮らす人たちがまともに働くには子どもたちを安心して預けられなければならないのに、良いところに預けられないのではないか。それならば私たちがやらなければならない」と託児施設の建設を指示した。その後サムスンはこれまで全国57カ所に託児施設を作った。ハン・ヨンウェ元サムスン社会奉仕団社長は「サムスンは1989年に『貧民街』だったソウル・馬川洞(マチョンドン)に土地を買い託児施設を作ってソウル市に寄贈した。職場内に託児施設を作ったのもサムスンが韓国で初めて」と話した。

サムスン医療院もやはり一流病院を作れという李会長の指示で設立された。李会長は生前「立ち後れた病院が患者の立場ではどれだけ大きな苦痛なのかわかっていながらそのままにしておくのは企業オーナーとしてすべきことにはならない」と話した。40カ国の一流病院をベンチマーキングしたサムスン医療院は現在韓国最高水準の総合病院に成長した。サムスン物産のソ・ドンミョン専務は「1993年にサムスン・ソウル病院の工事当時に現場を訪れた李会長の姿を記憶している。李会長は『3時間待たされて3分の診療を受ける現実、保護者役を3日務めれば患者になる現実、寸志を贈ってどうにかしてくれと医療陣に頼む現実』を指摘し、『あらゆる面で世界超一流の病院を作りなさい』と注文した」と回想した。

李会長は病院だけでなく付属施設のひとつである葬儀場施設と習慣にも変化を起こした。葬儀過程で疲れた喪主がシャワーを浴びて休める空間も用意しろという李会長の指示が出発点だった。ソ専務は「サムスン医療院の葬儀場では当時蔓延していた花札と過度な飲酒の習慣が消えた。李会長が作ったサムスン医療院が新しい葬儀の習慣を先導したという事実はだれも否定できないだろう」と話した。

ソウル大学経営学科のイ・ギョンムク教授は「社会福祉インフラ構築は企業がやるべき分野ではないだけでなく、先進国では企業にその責任を要求することもない。李健熙会長は自身とサムスンに対する社会的要求と期待にこたえるために多様な役割を務めた」と評価した。

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