3期目の習近平新指導部の顔ぶれ

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新指導部の顔ぶれ(序列順)

◇李強氏◇

習近平総書記が2007年まで約5年間務めた浙江省党委書記時代の部下を指す「之江新軍」と呼ばれる〝親衛隊〟の一人。同省は生まれ故郷で、習氏の下で秘書長などを務め、現地視察によく同行した。習氏が目をかける人物だ。

若い頃は農業を学び排水灌漑(かんがい)施設などで勤務。共産主義青年団(共青団)の地方組織を皮切りに党員活動を本格化。習氏と出会って以降、浙江・江蘇省の党幹部を歴任し、現職の上海市党委書記に上り詰めるエリートコースを歩んだ。

今年春、同市の新型コロナウイルス対応で2カ月超の都市封鎖を強行し批判を浴びたが、6月に現職に再任。習氏が守った形で、上司と部下の関係の深さをうかがわせた。

◇趙楽際氏◇

この5年間、習近平総書記の反腐敗闘争を推し進めた「懐刀」。取材対応が苦手とされ、メディアへの露出は少ないが、多くの習氏の政敵の汚職を立件し、最側近の一人として習派の拡大に大きく貢献してきた。

文革期の10代後半に青海省の農村で汗を流した「知識青年」。北京大哲学部卒業後は同省で経験を積み、2000年に当時最年少の42歳で省長に。党委書記時代は貧困地をこまめに回る「庶民派」で知られた。

07年からの陝西省トップ時代、習氏の父親の墓を巨大に改造したことで習氏の目に留まり、要職の党中央組織部長に抜擢(ばってき)され党人事を取り仕切った。寡黙だが着実に結果を出す実直さが評価され、3期目の指導部でも中心的役割を果たす。

◇王滬寧(おうこねい)氏◇

中国共産党で有数の理論家で、習近平総書記の指導理念の策定と党内での地位確立に主要な役割を果たした。江沢民、胡錦濤、習の3政権にわたり理論的支柱を務め、「三朝(三代)帝師」とも呼ばれる。

上海生まれで、「下放」は虚弱体質を理由に逃れた。大学でフランス語を学んだ後、上海の復旦大で国際政治学者として成功。米国の大学にも在籍し、米国社会の矛盾を突く本を著した。

1995年に党中央政策研究室に招かれ、思想・理論の構築を主導。12年に指導部、17年に最高指導部入りを果たした。政治的安定のために集権体制を是認する「新権威主義」派で、習氏の「中国式民主」や「中国式現代化」にもその影をみることができる。

◇蔡奇(さいき)氏◇

習近平総書記と福建省勤務時代に知り合い、浙江省でも〝部下〟を務めた。北京市トップとして北京冬季五輪で大会組織委員会会長を務め、外交的ボイコットの中、「成功」を演出。開閉会式では、臆面もなく習氏をたたえて忠誠を示し、厳格な新型コロナウイルス対策で党指導部を守った。

出世の早さも異例で、2014年に習氏がトップを務める国家安全委員会の事務方として浙江省から北京に呼び寄せられると、17年には党中央委員にならないまま北京市長に就任。同年の党大会で〝飛び級〟で政治局入りを果たした。

北京市では、違法建築撤去を理由に地方出身の低所得者を追い出したと批判されたが、果断さを評価する声も。

◇丁薛祥(ていせつしょう)氏◇

「習近平のいるところ必ず丁薛祥あり」と香港メディアに評される習氏の側近中の側近。習氏の国内視察や外遊には必ず同行し、2017年からは党指導部の秘書役である党中央弁公庁のトップを務めた。

元は技術官僚だったが、習氏が07年に最高指導部入りする直前、上海市の党委員会書記を務めた際に秘書となり、習氏の信頼を得た。13年に中央に引き上げられ、同年末に習氏が北京市内の肉まん店を訪れた際、そばに座った丁氏を知る人はほぼいなかった。

17年に中央委員を経ずに〝飛び級〟で政治局員に。習氏の地位確立に尽力し、地方の指導者を経験せずに異例の最高指導部入りとなったが、「偉ぶったところがない」との評もある。

◇李希氏◇

習近平総書記と一緒に働いた経験はないが、忠誠心は人一倍強いとされる。習氏の〝金看板〟ともいえる「反腐敗」を担う中央規律検査委員会書記に抜擢(ばってき)されたのも習氏の期待の表れだ。

主に地元の甘粛省で党員経験を積み、2006~11年に「革命の聖地」である陝西省延安市トップの党委書記を務めた。習氏が「下放」時代に過ごした同市梁家河(りょうかが)村の聖地化を図るなど習氏の総書記就任前から忠誠をアピールしていた。

15年からの遼寧省党委書記時代は選挙不正などの対応に追われたが、「消防隊長」として改革を断行。習氏に手腕を評価され、広東省トップにのし上がった。反腐敗ポスト就任も実行力を買われたとみられる。

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