[ad_1]
戦場後方の「銃後」の生産活動を支えるため、340万人以上の学生が工場などで動員された。その中の1人として、軍需工場で兵器製造に励んだ、東京都の男性が戦時下での厳しい青春を語ってくれた。
【写真】菅野さんが「秘密兵器」と説明を受けた風船爆弾に気体が注入される様子
半年間の動員生活
菅野一郎さんが学徒勤労動員で作業した製造所があった場所に建つ陸上自衛隊大宮駐屯地(7月24日、埼玉県さいたま市)
東京都港区に住む菅野一郎さん(92)が学徒動員に駆り出されたのは1945年(昭和20年)2月、旧制埼玉県立浦和中学2年生の14歳だった。教室に集められ、先生から「大人は戦地へ行き、戦っている。そのために人手が足りない。子どもでも働くのだ」と、動員される理由を説明された。その頃、本土に米軍機が飛来するようになり、子どもながらに戦況の悪化は感じていた。同級生と一緒に、「勉強どころじゃない。お国のために」と、決意を語り合った。菅野さんは「先輩たちは既に学徒出陣している。先輩に続け」という気持ちだったので、動員への意欲は高かった。
動員先は東京第一陸軍造兵廠大宮製造所。現在は陸上自衛隊大宮駐屯地(さいたま市)となっている。終戦を告げられる8月15日までの約半年間、学校での勉強は中断、多くの時間をこの工場で過ごすこととなった。動員初期は工場の一角で、付き添いの先生による授業が行われていたが、そうした機会はすぐに失われ、お国のためにと汗を流し働くことが当たり前となっていった。
一日の始まりは軍歌と行進
動員の一日は軍歌と行進から始まる。工場最寄りとなる国鉄大宮駅に午前8時に集合、同級生250人と一緒に工場目指して行進した。級長が「軍歌演習、はじめ!」と号令すると全員で歌い始める。
「万朶の桜か襟の色 花は吉野に嵐吹く 大和男子と生まれなば 散兵線の華と散れ」
「歩兵の本領」の一節は今でも歌える。足並みと歌声をそろえた行進は20分以上続いた。当時は物資不足が続き、まともに朝食を食べられないことも多く、行進の途中に倒れそうになった生徒もいた。
「好んで歌っているわけではない」と話していた学友は、やけになってわざと大きな声を出していた。付き添いの先生も軍国主義者という感じではなかったが、地域住民が見ている手前、生徒には歌わさざるを得ないという雰囲気だった。そうした空気を生徒も感じとり、先生が目を離した時はすぐに歌うのをやめた。その時の様子を思い出しながら、「パフォーマンスだったのでしょうね」と菅野さんは苦笑した。
[ad_2]
Source link