プリゴジン氏の人生について
プリゴジン氏は囚人、料理人、飲食店経営者、民間軍事会社のトップ、そしてロシアの財閥だった人物です。しかし、彼は専用機墜落事故で亡くなってしまいました。
彼は62歳で、プーチン大統領と同じくサンクトペテルブルク出身でした。彼はプーチン大統領の猟犬とも呼ばれ、料理人としても知られていましたが、同時に反逆者としても振る舞っていました。
彼の死因はまだ明らかになっていません。プリゴジン氏側はロシアの防空システムによる航空機の墜落だと発表していますが、西側では彼の死にはプーチン氏が関与していたと推測されています。
彼は1981年に強盗や詐欺などの犯罪で9年間服役しました。1990年に釈放され、彼はホットドッグのビジネスでお金を稼ぎ、その後はロシア各地で高級レストランを開業しました。
プリゴジン氏はこの時、当時下級官僚だったプーチン大統領をお客として迎え、彼との親密な関係を築きました。プーチン氏より8歳年下の彼は、ロシア大統領府で開催される様々な夕食会や宴会の料理を担当し、「プーチンの料理人」として呼ばれるようになりました。プーチン大統領は彼が経営するレストランで外国要人と食事を楽しむこともあり、その際には彼がそばにいて面倒を見ました。
プリゴジン氏が本格的にプーチン氏の信頼を得るようになったのは2014年に民間軍事会社ワグネルグループを設立した時でした。
ワグネルグループはクリミア半島の併合に向けた戦争や、シリア、リビア、スーダンなど世界各地の紛争においてロシア軍のかわりに介入し、影響力を拡大しました。ワグネルグループは民間人虐殺などで悪名高いものでしたが、プリゴジン氏はこれを否定していました。プーチン氏は公式の警察や軍隊では難しい任務をワグネルグループを通じて処理することができました。
プリゴジン氏はウクライナ戦争のさなかに世間に現れました。彼は声明を出し、ワグネルグループの存在を初めて公に認めました。プリゴジン氏と彼の部下はウクライナ戦争の激戦地であったバフムトでロシアの攻撃を主導しました。
西側の関係者らは、ワグネルグループが5万人の戦闘員を投入し、そのうち4万人がロシアの刑務所からの募集だったと推定しています。プリゴジン氏の勢力と財産は、ロシアの新興財閥とまで呼ばれるほど成長しました。
プリゴジン氏はSNSを通じてワグネルグループの活動をアピールし、軍部の人々の無能さや非協力的な態度を非難して、軍のトップと不和を引き起こしました。彼は5月に軍のトップに対して暴言を浴びせるなどしました。
これに対して、ショイグ国防相は6月10日に非正規軍全体に対して国防省との正式な契約を結ぶよう指示しましたが、結果としてプリゴジン氏との対立を増幅させる結果となりました。
プリゴジン氏は再契約を拒否し、その後6月23日に武装反乱を起こしてロシア本土に進撃しました。この時、彼はロシア国民から歓迎される姿も見られました。彼は軍部に対して批判的な立場を取り、ウクライナとの戦争で多くの成果を上げたことから、戦争英雄とされることもありました。
プーチン大統領はプリゴジン氏のモスクワ進撃を反逆行為と規定し、「厳しい対応をするだろう」と述べました。
武装反乱はロシアがベラルーシのルカシェンコ大統領を仲介に、プリゴジン氏と彼の部下を処罰しない代わりにベラルーシへの撤退を条件として合意し、36時間で一段落しました。
プリゴジン氏はプーチン大統領から身辺の安全を確保する約束を受け、武装反乱から5日後にプーチン氏と面会し、7月末にはロシア・アフリカ首脳会議がサンクトペテルブルクで開催された際、姿を見せました。
しかし、プーチン氏が最終的にプリゴジン氏を排除する可能性もあったとされています。というのも、プーチン氏は政敵や裏切り者を排除しながら権力を固めてきたためです。
7月5日、ロシア国営放送は警察特殊部隊がプリゴジン氏所有のオフィスと自宅を急襲する様子を放送し、彼に対する捜査がまだ続いていると報じました。
しかし、プリゴジン氏も他のプーチン氏と対立する反対派たちと同様に、捜査や裁判による有罪判決を受ける前に命を落とすこととなりました。
ソースリンク: 日本ニュース24時間